加太宏邦ゼミ

『日本、観エタヨ。』 あとがきの後始末


日本観光、または哀しき風景
◆永井荷風は明治41年にすでに「縦横に網目を張っている電線」や「厚みも重みもない物置小屋のような薄っぺらな」「西洋造り」の建物や「色の悪いペンキ塗りの広告」のあふれかえる東京を「浅ましい」と断じ、隅田川の東へ逃げた。
◆インバウンド観光推進を声高に言う政府の「ビジット・ジャパン計画」や東京都の「観光産業振興プラン」は、そもそも国土交通省や都・産業労働局が携わることに問題がある。文化の視点はどこへいったのだろう。われわれがたとえばネパールへ行きたいと思うのは、なにもそこに快適なホテルや、整備された交通施設や、日本語表示待ち受けているからでなく、カトマンズはまさにカトマンズであるからなのである。
◆東京が訪客を呼ぶためのほとんど唯一のヒントはここにある。再び荷風の言を借りるなら「江戸伝来の趣味性」にこそある。懐古趣味で言うのではない。風土の持続・保存・復元へ立ち返ることの提言なのである。この点で、比較的外国人観光客が多く訪れる京都でさえ実は、神社仏閣庭園仏像見物のスポット観光地であって、生活空間を垣間見ながらの町のそぞろ歩きを許すような
風土性を大方失っている。
◆なにも外国人の目だけを気にするのでない。われわれ生活者にとっての日常景が豊かでないことを嘆かなくてはならないのだ。生涯の累積快感度のようなものが計れるとしたらその指数は、こと日本については、GDP値の逆数で表したいほど絶望的であろう。
◆GDPをたたきだす国策を作り出せる官僚は有能であればあるほど、快適とか美的という概念とは無縁の策定マシーンだということだ。まさに醜悪な日本の風景作りの最大の貢献者であろう。農業政策は棚田の美しさを関心の外へ追いやる。道路行政で達成されるリッパな高速道路は、コミュニティをずたずたにする。
◆粗末に扱われた村は、再び役人の名案である「合併」という「詐道脅迫をもって」最後の止めをさされつつある。その昔、南方熊楠(みなかたくまぐす)は神社合祀令に反対して「腐れ役人」に戦いをいどむが、あえなく敗れる。その結果、和歌山県にあった3723の神社は790にまで激減、これによって氏神様に象徴される生活共同体は滅びへの疾駆を始める。
明治20年に7万1314あった市町村は今年の「大合併」でついに1900にまで減った。慶賀の至りである。
◆モノやハコをひたすら造り、似非効率に走ってきた後の廃墟にも似た哀しい日本の風景がわれわれの心を知らず知らずのうちに蝕む。年に1600万人がガイコクへ旅をし、それでもあきたらず、擬似西洋施設に群がり、買い物に、食道楽に走る。買うものは、ブランドという銘柄品。食うものは行列のはての一杯のラーメン。それが身にふさわしいかどうかは何の関係もない。ちょうど、いま、われわれの目の前にある風景が風土と何の関係も持たないほど醜悪なまで成り上がり的なのと同断である。
◆再び言わなくてはならない。フィレンツェには年間200万人近くの観光者が訪れるが、この町は観光開発されたから人が集まるのでは断じてない。 長い時間をかけた“らしさ”の保持や醸成が人を惹きつけるのである。
◆観光は、自動車やIT機器のようにいさましく開発・促進されるものではない。

* * * * * * * * * * * * * * * 加太宏邦
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