解説アラカルト集                説明: 説明: 説明: 説明: Italy by Fuji  2004 098

                   

                             

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Albinoni          シンフォニア 変ロ長調 (第36回定期演奏会より)

18世紀前半のヴェネツィアに生まれて、この地で活躍したトマソ・アルビノーニは、裕福な家庭に育ち、彼の作曲した多数のシンフォニアやコンチェルトは、彼自身の自宅で毎週のように催された音楽会で演奏されるためのものであった。

本日演奏されるシンフォニアは、それまでのシンフォニアが急―緩―急(教会ソナタ)の形式をとっていたのと違って、冒頭の緩徐楽章を省略した急―緩―急の3楽章制となっている。これは、後の前古典派の交響曲の規範となったものと言われている。

第1楽章<アレグロ>は、チェンバロと通奏低音の8分音符の上で、3つの声部がのびやかな掛け合いを演じ、第2楽章<アダージョ>は付点音符の規則的なリズムと和声の変化が独特の響きを生んでいる。第3楽章<アレグロ>は平明なイタリアン・バロックの典型的な舞曲である。

 

シンフォニア 第2番 ハ長調 op.2-3 (78回記念演奏会より)

  アルビノーニは、ヴィヴァルディとほぼ同時代に活躍したイタリアのヴェネツィアに生まれたバロックの作曲家で、ヴァイオリン奏者でもありました。約50曲にものぼるオペラを作曲しましたが、その多くは不明となっています。彼は18世紀前半の器楽の発展という歴史上で重要な位置を占め、様々な器楽曲を出版しました。バッハもアルビノーニには大きな関心を寄せ、彼のトリオ・ソナタの主題を用いてクラヴィアのためのソナタを数曲作曲しています。育ちのよさを具現する上品な音楽性と天性の旋律美を特徴とする楽曲がこのシンフォニアにも感じられましょう。

 

Bach             ヴァイオリン協奏曲 第2番 ホ長調 BWV1042 (第40回記念演奏会より)

バッハは、その曽祖父の時代から、親戚、兄弟、子孫を合わせると数10人(一説では約50人)とすぐれた音楽家を輩出した家系の中心人物で、これら親戚縁者、息子達も当然バッハ姓ですから、当の本人と区別するため、J.S.バッハのことを特に大バッハと呼ぶことがあります。

バッハはオルガンの名手で、また自身敬虔なるドイツ新教の信者であり、教会音楽家でもあったので、古今宗教音楽中の白眉といわれる「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」などのほか、多くの宗教曲を残しております。

宗教曲ではないフツーの音楽、つまり世俗曲はバッハが32歳から6年間、ライプツィヒ近郊にあるケーテンの宮廷楽長職にあったときに、本日演奏されますヴァイオリン協奏曲ホ長調をはじめ、イ短調のヴァイオリン協奏曲、2つのヴァイオリンの為の協奏曲、6曲のブランデンブルグ協奏曲、無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ、無伴奏チェロ・ソナタなど今日よく知られているほとんどの器楽曲がこの時代に作曲されました。

多作家のバッハではありましたが、その存命中に楽譜として出版された曲は少なかったそうで、このホ長調のヴァイオリン協奏曲はその例外といえ、しばしば演奏され、息子C.P.エマヌエル・バッハが楽長時代にこの大バッハの曲を演奏した記録が残っているくらいですから、当時から人気のあった曲と思われます。

 

説明: 説明: 説明: 説明: MCj03388780000[1] 2つのヴァイオリンの為の協奏曲 ニ短調BWV1043(第45回定期演奏会より)

J.S.バッハ(16851750)はヘンデルとともに、バロック時代の音楽の最高峰に位する大作曲家です。宮廷付音楽家である父の末子として、ドイツのアイゼナッハに生まれました。

彼はオルガンの名手で、また自らも敬虔なるドイツ新教の信者、教会音楽家でもあったので、「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」などの多くの宗教曲を残しています。他方、多くの器楽曲は32歳から6年間ケーテンの宮廷楽長職であった時代に書かれ、この作品もその一つです。

この協奏曲の美しさは弦楽オーケストラ全体(リピエーノ)と二人のヴァイオリン・ソリストが共に模倣しあい、重なり合い、からみ合うという各パートの流れにあります。とりわけ二人のソリストが交互に喜びを歌い上げる第2楽章はバッハの緩除楽章のなかでも最も美しいものの一つといえましょう。

 

ブランデンブルグ協奏曲 第3番 ト長調 BWV1048(第47回定期演奏会より)

ブランデンブルグ協奏曲はバッハ(16851750)がケーテンの宮廷学長に務めていた時代のなかば、1721年に編まれた協奏曲集です。ブランデンブルグ公に献呈した楽譜はその名にちなんで「ブランデンブルグ協奏曲」と呼ばれ、バッハの室内オーケストラ曲の傑作として有名です。

6曲からなるこの協奏曲はバロック時代に流行した合奏協奏曲の形式をとらず、それぞれ異なった様々な編成で演奏されるように工夫され、曲想も曲ごとに異なります。

第3番ではヴァイオリン3部、ヴィオラ3部、チェロ3部に通奏低音を加えた10声部がソロ機能を担いつつ、緊密なアンサンブルを繰り広げます。その綾なす重厚な響きからはバッハならではの味わいが伺えるでしょう。

             

                                          ブランデンブルグ協奏曲 第4番 ト長調 BWV1049 (第37回定期演奏会より)

 1721年の春、ブランデンブルグ辺境伯クリスチャン・ルートウィヒの元に、一通の献呈文と共に種々の楽器のための6曲の協奏曲の楽譜が送られてきます。送り主は、当時ケーテンの宮廷楽長の職にあった、かのヨハン・セバスチャン・バッハで、つまりこの協奏曲が、今日一般に「ブランデンブルグ協奏曲」の名で親しまれている全6曲というわけです。

 さて、ブランデンブルグ辺境伯は、このバッハの作品にいたく感銘し、彼の楽団にしばしば演奏させて楽しんだ、といきたい所なのですが、実は、これらの協奏曲が辺境伯の楽団によって演奏された形跡は全くないのだそうです。といいますのも、当時、辺境伯お抱えの楽団メンバーはたったの6人で、これらの多様な楽器群を必要とする協奏曲を演奏するためには人数があまりに少な過ぎたのでした。

 かくして、バッハの自筆楽譜は一度も使用されることなく、辺境伯の死後人手に渡り、最終的にはマルブルクの国立図書館に所蔵されることになりました。現在のバッハ研究者は、これらの6曲は元々バッハ自身がケーテンの宮廷楽団で演奏するために作曲されたものと考えています。当時のケーテンの宮廷楽団には、バッハも含めて優れた演奏家が多数在籍し、人数的にも、やや大規模な第1番を除く他の5曲の楽器編成とぴったり一致しているという理由からです。

 今日演奏される第4番の協奏曲は、ヴァイオリンと二本のブロックフレーテ(縦笛)からなるコンチェルティーノが、弦楽合奏のリピエーノに対置される、典型的な合奏協奏曲<コンチェルト・グロッソ>のかたちをとっています。今日では、特別な場合を除けばブロックフレーテのパートは、フルートで演奏されることが多いようです。

 

Bartok            ルーマニア民俗舞曲 (第45回定期演奏会より)  説明: 説明: 説明: 説明: MCj03321040000[1]

バルーク(1881〜1945)は、ハンガリーの最大の作曲家で、20世紀音楽に絶大な影響を残したひとりです。お届けする作品は、1915年に作曲された6曲からなる同名のピアノ曲を作者自身が弦楽合奏用に編曲したものです。バルトークは民間伝承されてきた音楽を収集し、研究した作曲家としても有名で、この作品もルーマニアでの民謡収集の成果といえます。

6曲から成り立ちます。

第1曲「棒踊り」は、トランシルヴァニア山地中央部の踊り。

第2曲「腰帯踊り」は、喜ばしい気分にあふれた農民舞踊。

第3曲「足踏み踊り」は、脱穀の労働歌を起源とし、悲しい旋律が印象的。

第4曲「ホーンパイプの踊り」は、角笛の踊りとも言われる抒情的な三拍子の踊り。

第5曲「ルーマニア風ポルカ」、本来二拍子のボヘミア起源のポルカが、ここでは三拍子二小節プラス二拍子一小節をとる。

第6曲「急速な踊り」は、足を小刻みに踏む速い踊りで、終曲にふさわしく華やかなもの。

             

Britten           シンプル・シンフォニー 作品4 (第49回定期演奏会より)

ベンジャミン・ブリテン(1913〜1976)は、20世紀イギリス最大の作曲家であると同時にすぐれた指揮者でもありました。その作風は調性的で、中庸の精神に満ちています。ブリテンは5歳から作曲を手がけたといいますが、9歳から12歳までに書いた習作から素材を採り、これに新しい息吹を与えたものが「シンプル・シンフォニー」です。パリ音楽院在学中、若干20歳時に作られた弦楽オーケストラのための作品で、楽章ごとに以下のような標題がつけられています。

第1楽章 「騒がしいブーレ」 にぎやかなアレグロ楽章。

第2楽章 「おどけたピッツィカート」 終始ピッツィカートで演奏するトリオをもつ大スケルツォ。

第3楽章 「感傷的なサラバンド」 第1ヴァイオリンが感傷的な主題を歌う、コードを持つABA形式。

第4楽章 「ふざけた終曲」 第1楽章と同じ方式で書かれ、主として第1主題が展開されます。

変化に富んだ4つの楽章から成るこの曲は聴衆の耳を飽きさせることなく弦楽オーケストラのレパートリーとして今日よく演奏されています。

             

              Corelli               合奏協奏曲 作品6

コレルリはイタリアで活躍した偉大なヴァイオリニストであり、作曲家であります。コレルリの作品で現存しているのは、トリオソナタ48曲、ヴァイオリンソナタ12曲(ラ・フォリアなど)、合奏協奏曲12曲(クリスマス・コンチェルト)などのみです。

しかし、合奏協奏曲という形式を完成したこと、ヴァイオリン奏法を確立し、それが多くの弟子によって広められたこと、通常20歳以上でなければ応募を許されないアカデミア・フォラリモニカに17歳で推挙されたことなど、作曲家としてのみならず演奏家としても輝かしい業績があります。

作品6−8は“クリスマス・コンチェルト”として広く愛されています。 地味ながらも作品6−6の存在も軽視できないでしょう。

説明: 説明: 説明: 説明: MCj04414770000[1]

 

        Delius            「二つの水彩画」 (第46回定期演奏会より)       

ディーリアス(1862〜1934)はイギリスの作曲家で、ドイツ人を両親として生まれ、ライプチヒ音楽院で学びました。その半生をパリ近郊の美しい村グレ=シュール=ロワンで送り、その屋敷の庭先に流れるロワン河で幾度となく舟遊びをして楽しみました。その折1917年に無歌詞無伴奏の混声合唱曲「夏の夜、水の上に歌える」を作曲。「二つの水彩画」は、晩年に失明し手足が不自由となったディーリアスの目となり手となり、作曲を助けたエリック・フェンビーが1938年にその合唱曲を弦楽合奏用に編曲したものです。

美しい旋律が2ndヴァイオリンから物憂げに始まり、ある瞬間、瞬間にうつろいやすい、微妙な、美しさを演出し、まさに印象派の絵画を思わせる、2曲からなる小品です。

 

Dohnanyi            セレナード ハ長調 作品10 原曲:弦楽三重奏曲(第47回定期演奏会より)

ハンガリーに生まれたドホナーニ(1877〜1960)は、世界的ピアニストとして、また指揮者、教育者として高い名声を誇りましたが、作曲家としても室内楽曲、管弦楽曲、ピアノ曲などに少なくない作品を残しています。 20世紀に活躍したハンガリーの作曲家といえば、バルトークやコダーイをまず念頭に浮かべることでしょう。ドホナーニが作曲家としてあまり重視されてこなかったのはその作風がブラームスなどをモデルとしたドイツ・ロマン派音楽の伝統を踏み出すことがなかったためだろうと思われます。

お届けする曲は1902年に書かれた弦楽三重奏曲「セレナード」を原曲とするシトコヴェツキーの見事な編曲による弦楽合奏版です。この作品はブラームスの影響を受けがらも独自のロマン主義的な語法を確立した作品といえましょう。

ハンガリーの熱き思いが各章で写し出されます。快活な躍動感あふれる行進曲からはじまる第1楽章、ヴィオラ・ソロの甘くせつない旋律がヴィオリン軍へと変奏されていく第2楽章、半音階的に動く8分音符の壮大なスケルツォの第3楽章、チンバロン(ハンガリーの楽器)に似た音のもとに神秘的な夜の世界をくりひろげるこの上なく美しい第4楽章(中心ともいえる楽章)、終楽章ロンドではハイドン風の主題が多彩なエピソードを作り上げ、第1楽章から派生した誇り高いハンガリー的な旋律のエピローグで曲を閉じます。

             

Dvorak           説明: 説明: 説明: 説明: MPj04402940000[1]  弦楽セレナード 作品22 (第43回定期演奏会より)

チェコの大作曲家ドヴォルザーク(1841〜1904)は、セレナーデを2曲残しています。一曲はこの弦楽合奏用のもの(1875年33歳)、もう一つは管楽合奏用ものもの(36歳)です。弦楽セレナーデを完成する3ヶ月ほど前に、ドヴォルザークはオーストリア国家音楽賞を受賞し、当時の彼としてはかなりまとまったお金を手にしました。そのため、お金の心配をせずに大喜びで彼は  この作曲に打ち込むことができ、幸せな気分でセレナーデを書き上げました。

この曲には、恋する人に寄せる思いをのせた、しっとりとした、落ち着いた、柔らかな響きはもちろんのこと、気取らぬ陽気さを表す音にも満ちあふれています。どのパートも魅力にあふれ、弦楽器奏者の憧れの曲といえましょう。

5つの楽章からなります。静けさにあふれるロマンティックな第1楽章につづき、優美なワルツの第2楽章、躍動的なスケルツォの第3楽章、美しさの際立つ第4楽章、そして第5楽章では、はつらつと曲が一気呵成に進み、最後に冒頭の主題が現れて名残惜しい雰囲気を醸し出すが、再び活力を増して閉じます。

 

                    夜想曲 作品40 (第19回定期演奏会より)

弦楽セレナーデ作品22を1875年に作曲した彼は、弦の合奏曲に魅力をかんじたのでしょうか、1870年に作曲した未発表のホ短調弦楽四重奏曲の中間部を1875年に弦楽合奏用にロ長調として編曲し、この夜想曲としました。

             

 

Elgar                序奏とアレグロ (第43回定期演奏会より)      説明: 説明: 説明: 説明: MPj04242850000[1]

この作品は「愛のあいさつ」で有名なイギリスの作曲家エルガー(18571943)の作品のひとつであり、円熟味を増した1905年に書き上げられました。 弦楽四重奏のソロと弦楽オーケストラ(Tutti)という編成をとり、合奏協奏曲風に扱われていますが、ソロとTuttiの掛け合いはバロック時代のものとは全く趣を異にします。

一曲が序奏部分とアレグロ部分に分れますが、連続して演奏されます。序奏部では弦楽器の力強い重厚な響きとそれに受け答える弦楽四重奏ソロの美しい調べ、特に美しいヴィオラ・ソロの旋律に耳を傾けてみてください。アレグロ部ではソナタ形式をとり、序奏の第2主題を掲示部とし、難所フーガの展開部をへて、再現部を迎えます。15分足らずの曲ですがなかなかの難曲です。

 

              N.W.Gaze        ノヴェレッテ第2番 ホ長調 op.58 (第70回定期演奏会より)

ゲーゼ(18171890)は、デンマークの作曲家です。コペンハーゲンの楽器製造業の家庭に生まれ、幼少よりヴァイオリンを習得し、作曲楽を学んだ後、ライプツィヒでメンデルスゾーン、シューマンと親交を深め、ライプツィヒ音楽院教授、ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者となります。1848年のドイツ・デンマーク間の戦争を機にコペンハーゲンに戻り、コペンハーゲン宮廷学長を務め、作曲の分野でも数々の作品を発表しました。

ドイツ・ロマン派の影響を多分に受けながらも民族的色彩が濃い作品を残し、スカンディナヴィア国民楽派の基礎を築き上げました。8つの交響曲、管弦楽曲、ヴァイオリン協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、カンタータなどを残しています。

 このノヴェレッテにもドイツ・ロマン派の影響が強く感じとれましょう。ゲーデの溢れ出る水々しさと美しさは各楽章に表れ、3楽章は子守唄のように早春のまどろみを感じさせます。(日本国内においては、ガーゼまたはガーデとも表記されることがあります)

 

 

Geminiani        合奏協奏曲 「ラ・フォリア」 (第25回定期演奏会より)

F.ジェミニアーニ(1687〜1762)は、コレルリの1番弟子ともいえるヴァイオリン奏者兼作曲家で、ヴィヴァルディと同時代にイタリアで、その後ヘンデルが活躍していたロンドンやダブリンで名声を博しました。

その作風は師であるコレルリの教えに忠実だったそうで、同時代のヴィヴァルディがコレルリから脱皮したのに比べ、コレルリが完成した様式を受け継いで、その枠を超えなかった音楽家といわれています。

「ラ・フォリア」というとコレルリのヴァイオリン・ソナタがあまりに有名なため、コレルリの専売特許のように聞こえますが、フォリアとはポルトガル起源の16世紀はじめスペインで起こった舞曲で、バロック時代には変奏曲として流行したようで、数曲の類似曲があります。

この合奏曲「ラ・フォリア」は、師コレルリの作品5の12曲からなるヴァイオリン・ソナタの第12番「フォリア」を合奏協奏曲のスタイルにそっくり書き替えたものです。

             

                                          弦楽セレナード ホ短調 作品20 (第52回定期演奏会より)

「威風堂々」や「愛のあいさつ」で有名なエルガーは、パーセル以来のイギリス音楽界を代表する大作曲家です。このセレナードは、1892年の5月、エルガーの愛妻であるキャロラインとの3回目の結婚記念日の贈りものとして書かれた作品です。英国の情緒と憧れを感じさせる曲で、とりわけ中間部のラルゲットには、この曲の情熱と優美さが伺えるでしょう。

エルガーの作品には他に「エニグマ変奏曲」、チェロ協奏曲、「序奏とアレグロ」、2曲の交響曲があります。

             

Greig            ホルベルク組曲 作品40 (第32回定期演奏会より)  説明: 説明: 説明: 説明: MCj04151400000[1]

グリーグ(1843〜1907)は、その64年の生涯のうちに、ノルウェーの民謡や伝承文学に取材した数多くの作品を作曲しているが、この「ホルベルク組曲」もそうした祖国愛から生まれた作品といえるものである。ホルベルクというのは、グリークの生まれ故郷でもあるベルゲン出身の文学者ルドヴィ・ホルベア男爵のことである。1884年、ベルゲン市当局はこのホルベア男爵の生誕200年を記念する行事を考えたが、その一環としてグリークに作品を依頼し、その結果生まれたのがこの曲である。最初はピアノ曲として作曲されたが、初演の数ヵ月後には、現在の弦楽合奏用に編曲されたのであった。曲は、ほぼバッハと同時代を生きたホルベア男爵の当時をしのんでか、優雅で軽妙な味わいをたたえたバロック趣味を反映させた作品となっており、各曲にも、サラバンド、ガヴォット、などと当時の作曲様式が生かされている。

                                         

                                          第14回で演奏会・北欧音楽の夕べより) 

組曲「ペール・ギュント」、ピアノ協奏曲などの抒情的な作品によって親しまれていますが、当時ヨーロッパを風靡していた大曲主義に抗して、小規模のピアノ曲、歌曲、室内楽などを通して祖国ノルウェーの風土や雰囲気を歌い上げ、北欧音楽を国際的なレベルにまで高めたグリーグの功績は特に高く評価されています。今夜の「ホルベアの時代より」は、近代北欧文学の父といわれる、作曲者と同じくベルゲン生まれの劇作家・詩人ホルベア(16841754)の生誕二百年を記念して1884年に作曲されたもので、親しみやすい古典的なスタイルの組曲です。

説明: 説明: 説明: 説明: C:\Users\Mieko Sekino\AppData\Local\Microsoft\Windows\Temporary Internet Files\Content.IE5\SFEVVDKN\MC900015910[1].wmf

Hamerik          交響曲第6番 ト長調 作品38 弦楽合奏のための《宗教交響曲》 (第64回定期演奏会より) 

 (本邦初演)

 

Asger Hamerik(18431923)は、デンマーク生まれの作曲家です。ドイツ風スペルHanmerichでハンメリクとも言います。デンマークの作曲家GadeHartmanに師事し、16歳で作曲家として公にデビューしますが、彼の音楽活動と野望はデンマークにとどまることなく、ロンドン、ベルリン(ビューローにピアノと指揮を学び、この頃、姓を北欧風のHamerikのスペル、ハメリクに変える)、パリ(ベルリオーズに管弦楽法を学ぶ)、イタリア、ウィーンを経た後、1871年にはアメリカ合衆国に渡り、Baltimore音楽院院長となります。アメリカの地を去るまでの19年間のうちに7つの交響曲を書き上げるという業績を果たし、最終的にはコペンハーゲンに戻り、定住することになりました。

 弦楽器のみで構成されるこの6番目の交響曲は、今日演奏される唯一の人気ある作品です。交響曲は下降スケールの短いファンファーレの主題で始まり、この主題は最終楽章にもよみがえります。第1楽章では、しばしば半音階の動きが用いられ、高揚気分を盛り上げます。第2楽章は、躍動感あふれるリズムと美しいフレーズのコントラストが実に見事です。第3楽章は、賛美歌にも似た旋律が低弦部から奏でられ、変奏され、変調の動きとともに緊張感を上げていきます。最終楽章はダンスの主題とリズムを伴う2/4拍子の舞曲であり、お祭り気分が溢れています。転調部分には北欧の民謡風要素を覗かせる節もあります。

簡潔なこの交響曲にもみられるように、ハメリクは師であるGadeとは異なる対照的な音楽観を築き上げて行きました。その機知に富み、頑丈な彼独自の音楽観は<新世界>で培われたものに違いないと言えましょう。

 

Handel           水上の音楽 第1組曲 (第50回記念定期演奏会より) 

「水上の音楽」はヘンデル(16851759)の作品の中で「メサイア」とともに最も有名です。この管弦楽曲が本来どのような形で書かれ、演奏されたかということは定かではありませんが、広く知られたエピソードがあります。それは休暇にロンドンを訪れたヘンデルがそのまま居座ってしまい、当時のイギリス王ジョージ1世と和解するために王が催したテームズ河での舟遊びに際し、この曲を作曲したというものです。もっともこの逸話も今日では事実ではないとされていますが、何回かおこなわれたテームズ河での舟遊びの際のどこかで「水上の音楽」が演奏されたというのは事実です。

1950年代以降の研究の成果により、「水上の音楽」はもともとは三つの組曲から成っていたものだとみなされるようになり、1962年に出版されたレートリヒ校訂によるヘンデルの新全集は、この三つの組曲から成る形を採用しています。第1組曲ヘ長調は2つのホルンを独奏楽器とした、いわばホルン組曲の形で書かれた華やかな作品です。

             

                                          説明: 説明: 説明: 説明: MPj04386240000[1] 

合奏協奏曲 作品6

作品6は、12曲から成り立つ合奏協奏曲合奏協奏曲とは2つのヴァイオリンと1つのチェロからなる独奏楽器群と弦楽オーケストラとチェンバロからなる楽器群との組み合わせによる協奏曲をいいます。合奏曲という様式は、バロック時代を特徴づける様式の一つでコレルリによって完成されたものであり、イタリアでのコレルリとの出会いがきっかけとなって、ヘンデルも後に手がけることになりました。 ヘンデルの最円熟期である17399月末から10月末までのわずか1ヶ月の間に一気に作曲されました。

 

第1番 曲はア・テンポ・ジュスト、アレグロ、アダージョ、アレグロ、アレグロの5楽章から成る。絢爛豪華な客間で弾かれる曲にふさわしい荘厳な響きから始まり、二台のヴァイオリンのソロとチェロのソロとが掛け合いながら、合奏部と織りなす各楽章は変化に富み、聴き手を優雅な世界へと導きます。

第2番 1番や第5番のような華やかさにはかけますが、このしっとりとした趣はいかにもヘンデルならではといえるでしょう。美しいステンドグラスに囲まれた西欧の教会に流れる神聖な響きを感じさせるアンダンテに始まり、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの掛け合いが美しいアレグロ、牧歌的なラルゴを経て、軽やかな弦楽合奏の伴奏を背にソロがのびやかに歌うアレグロで曲は閉じます。比較的短めな曲ではありますが、味のある一品に仕上がっています。 

第3番 短調の曲であるために地味ではありますが、聴き込むとなかなかの一品であと感じさせます。しっとりと落ち着いたラルゲットから始まり、ヘンデルらしい重厚な響きと味のある掛け合いが2・3楽章へと続きます。4楽章のポロネーズはがらりと雰囲気が変わり、バグパイプの響きを感じさせるこのリズミカルな楽章は、楽しさをも誘います。終楽章は短めにあっさりと終わりますが、全体を通して気品のある一品に仕上がっています。

第5番 1ヴァイオリンのソロがファンファーレのごとく音を響かせて第1楽章をはじめ、フガートの第2楽章、スケルツォ風楽章、ラルゴ、アレグロを経て、優美なメヌエットで終わります。ヘンデルの合奏曲の中でよく取り上げられる一曲です。

第7番 変ロ長調は比較的軽やかな感じの曲です。しかし、ヘンデルらしいしっとりとした趣も持ち合わせ、中間部Largoでは、いつしか天上の世界へと導かれるようです。

第9番 長調であるものの、地味目で豪快さや華やかさには欠けますが、落ち着いた弦の響きで厳かに始まるラルゴ、軽快なアレグロ、甘く切ないラルゲットや変ホ長調からヘ長調へ移調するメヌエットなど、魅力にあふれた作品です。

10番 6曲から成り立ちます。重厚な響きで重々しく始まる第1曲、1stヴァイオリンソロと2nd ヴァイオリンソロの軽快な掛け合いで始まる第5Allegroはこの曲のハイライトとも感じられ、終曲は長調へと転調し穏やかに閉じます。

 

12 第12番は一連の作品の最後を飾る典型的な教会協奏曲の楽章構成をとる協奏曲です。中間部のラルゲットの旋律の美しさは特筆に値します。短いラルゴに続く最終楽章のアレグロは、ヘンデルがまだハレにいたころ師事したツァハウの主題を用いたフーガです。

                                         

              Janacek          弦楽のための組曲

「チェコスロバキアのモラヴィアが生んだ作曲家L.ヤナーチェク(18541928)は、郷土の音楽語法を生かしてユニークな作風を築きあげた作曲家であり、特に晩年のおよそ10年間に、代表作に数えられる名曲の多くを書き上げている。一方、それ以前の作品は現存するものが大変少なく、(一説には、彼は50歳代以前に書いた作品の多くを自らの手で破棄してしまったという。)今日演奏される「弦楽のための組曲」も1870年代に書かれた数少ない作品の一つである。1877年の秋には完成され、同年12月2日に彼自身の指揮で初演された。全体は、古典的なスタイルの短めの6つの楽章から成り、各楽章には当初、「前奏曲」「アルマンド」などの標題がつけられていたが、1926年に出版された折にはこれらの標題は除かれていた。

 

 

Mozart           セレナード第6番 ニ長調k.239 《セレナータ・ノットゥルナ》  

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1776年1月、モーツァルト20歳のとき、故郷ザルツブルグで作曲。この地の貴族または金持ちの意らで書かれたと推測されています。楽器編成は弦楽器中心で規模が小さく、バロック期のconcerto grossoに似た編成をとります。ティンパニが加わるところがおもしろく、庭園で演奏されるにふさわしい音楽だったろうと思われます。セレナーデは普通5楽章以上で構成されるのが原則だったにもかかわらず、このセレナードは3楽章にまとめられたのは、作曲完成時期が冬であったため、冬の庭園で演奏された作品でだろうと推測されます。

モーツァルトの研究家として有名なアルフレート・アインシュタインは言っています。「この作品は、音響と旋律法の点で、モーツァルトの初期の作品のなかで、最も魅惑的な一曲であって、われわれは三つの楽章に補充を加える要求を感じない。・・・フィナーレのロンドでは、モーツァルトは自分と聴衆に対してちょっと冗談をやっている。彼は<民衆>のところまで降りていっている。そして自分自身に立ち返るときには、自分の貴族的天性を少しばかり見せびらかしている。彼は田舎っぽい粗野な美しさを暗示していから、次に彼自身がどんなに洗練された服装をしているかを強調するのである。」 この曲の本質を見抜き、巧みに言い当てています。

 

ディヴェルティメント ニ長調k334 (第66回定期演奏会より)

管楽器(ホルン2本)が入るこのディヴェルティメントは、モーツァルトがマンハイム・パリ旅行からザルツブルクに戻ったあとの作品です。この旅行はモーツァルトにとって苦悩の多い旅行(就職活動の失敗、同行していた母の死、失恋など)でしたが、同時にそこで様々な新しい音楽形式に触れた実り多き旅であったことも事実で、彼の音楽により成熟ぶりを加えました。そして前作のK287にすでに表れたスケールの大きなディヴェルティメントのあり方が、一層成熟した書法により内実豊なものとなっています。

6楽章から構成されており、第一ヴァイオリンの独創的な扱いに耳を傾けて聴いていくうちに、あの有名なメロディー「モーツァルトのメヌエット」と出会えます。

 

セレナード(第13番)ト長調 <アイネ・クライネ・ナハトムジーク> (第68回定期演奏会より)

モーツァルトの全作品の中でも最もポピュラーな曲、名曲中の名曲です。題名は「ひとつの小さな夜の音楽」を意味していますが、そのドイツ語の原題がそのまま日本でも通称となり、「アイネク」と略され愛されています。 モーツァルトは小さなセレナードとしてこの作品を書きましたが、どのような機会のために作曲したのかは全く定かではありません。 作曲されたのはオペラ<ドン・ジョヴァンニ>の創作が進んでいた1787年の8月で、この曲では極めて整った均斉美が伺われます。 弦楽オーケストラとして、また室内楽カルテットとしても広く演奏されています。

 

 

Nielsen         小組曲 作品1(第14回で演奏会・北欧音楽の夕べより)

ニールセン(1865〜1931)は、オペラ、交響曲、協奏曲、ピアノ曲、歌曲など広い分野にわたる作品を残し、デンマーク最大の作曲家に挙げられています。習作期には主として室内楽を書き、それがやがて交響曲の作曲へと発展していきますが、今夜の弦楽のための「小組曲」は、習作の時期をすでに脱し、しかも最初の交響曲の発表にさきがけて1888年に作曲されたもので、三つの楽章から成る力作であるといえましょう。

 

 

Respigi           説明: 説明: 説明: 説明: MCj02002170000[1]リユートのための古い舞曲とアリア第3組曲 (第45回定期演奏会より)   

イタリアのレスピーギ(1879〜1936)は、19世紀末から台頭する印象主義音楽の作曲家です。彼の作品のなかで、華麗なオーケストレーションという側面からは、交響詩「ローマの松」などのいわゆる“ローマ三部作”、近代イタリア復古主義という側面からは、「リユートのための古い舞曲とアリア」が異彩を放っています。

3曲からなるこの組曲はローマ聖チュチーリア音楽院の図書館で発見された15〜16世紀のリユート音楽に基づき編曲されました。原曲の持つ香り高い気品を失わぬように、当時の和声構造が深く研究され、オーケストレーションされていることがわかります。

その3番目にあたる第3組曲は1931年、51歳の円熟期のものであり、他の2曲に比べ簡素化され、弦楽合奏のみの編成をとっているのが特色で、その美しい響きと旋律によって特に広く親しまれています。

 流麗な旋律が印象的な「イタリアーナ」、ヴィオラのメランコリックな旋律と明るい中間部とのコントラストが見事な「宮廷のアリア」、優雅な旋律に基づく自由な変奏曲「シチリアーナ」、主題を繰り返す上で変奏が展開されていく荘重な「パッサカリア」から構成されます。

 

              Sibelius        田園組曲(第14回で演奏会・北欧音楽の夕べより)

シベリウス(1865〜1957)は、訃音ランドの最大の国民的作曲家で、7つの交響曲、交響詩「フィンランディア」、ヴァイオリン協奏曲など多くの名曲を残していることはよくご存知の通りです。「田園組曲」は1921年にフルートと弦楽合奏のための「美しい組曲」と並んで書かれた作品で、三つの対称的な小曲から構成されています。

説明: 説明: 説明: 説明: MPj04331030000[1]

                             ラカスタヴァ (恋人) (第14回で演奏会・北欧音楽の夕べより) 

この曲もやはり三つの小曲から成る組曲で、フィンランドの伝承的抒情歌による同名の合唱曲を1911年に器楽曲に書き改めたものです。原譜では、打楽器としてティンパニとトライアングルが顔を出します。小曲ながら劇的な要素の濃い作品です。

 

 

Shoenberg       浄められた夜 (第26回定期演奏会より)

“十二音音楽”を完成した作曲家として知られるアルノルト・シェーンベルク(1874〜1951)は、いわゆる“世紀末”の19世紀後半、ヨーロッパ文化がたどりついた爛熟した諸芸術がはびこる中、ウィーンで生まれました。

シェーンベルクは、8歳でヴァイオリンを習いはじめ、作曲もし、のちにチェロ奏者としてアマチュアのオーケストラに入り、そこの指揮者に数ヶ月作曲法を学んだほかは、独学同然で、音楽学校での教育は受けていないというのですから、その能力は驚くべきものがあり、しかもその後には作曲界全体に何らかの形で多大な影響を与える、十二音音楽の技法を完成するにまで至るのです。

「浄められた夜」は、シェーンベルグ25際の1899年12月に、詩人リヒャルト・デーメル(18631920)の詩集「女と世界」のなかの1編「浄められた夜」をもとに弦楽6重奏として作曲されたプログラム・ミュージックで、師の内容と音楽の進行が克明になされています。その詩の大要は「冬枯れの月夜を歩む二人、女は不義の子を妊っていることを告白するが、男はそれを許して慰め、二人の愛によって夜が浄められる」というものですが、音楽に表現されている度重なる転調は、詩の中に出てくる男女の情緒や、葛藤といったものの正確な心理描写であることを思うと、“無調時代の代表作”の一言では、片付けられないような気がします。

弦楽合奏への編曲は1917年、1943年と二度行われましたが、両者にはほとんど差異がありません。 

 

                         説明: 説明: 説明: 説明: MPj04387560000[1]

                                                                  

          Suk                 弦楽セレナード 変ホ長調 作品6 (第56回定期演奏会より) 

「弦楽セレナード」といえば、チャイコフスキー、次にドヴォルザークを思い浮かべることでしょうが、このスークの弦楽セレナードも隠れた、優れた、美しい名曲です。

ヨゼフ・スーク(18741935)は、チェコの作曲家及びヴァイオリニストであり、今世紀の名ヴァイオリニストのひとりとされるヨゼフ・スークの祖父でもあります。若くから才能を開花させたスークは、10代の頃に代表作となるような作品をいくつか書き上げました。この「弦楽のためのセレナード」もその一つであり、1892年、18歳の時の作品です。

プラハ音楽院で、師ドヴォルザークの下で多くの教えを受けたスークですが、この作品にもドヴォルザークの同名の作品からの影響が、作曲の技巧的な面において感じられます。内容的には作曲年の夏に、のちの妻となる乙女オティリエ(ドヴォルザークの娘)との出会い、その初々しいオティリエのイメージ、そして彼女への想いを結晶させた詩的でかつロマンティックな佳品となっています。そしてこの作品はスークの出世作となりました。

全曲の導入部のような第1楽章、優美なワルツ調の第2楽章、内省的な夜想曲風な第3楽章、チェコの民族色が濃厚に打ち出された終楽章では、再び第1楽章の主題が回想されたのち曲を閉じます。

                   

Tchaikovsky     弦楽のためのセレナード ハ長調 作品48 (第50回記念定期演奏会より)

この弦楽セレナードはチャイコフスキー(18401893)が残した唯一の重要な弦楽オーケストラのための作品です。モーツァルトの弦楽セレナードが多分に室内楽的であったのに対し、チャイコフスキーの弦楽セレナードは大規模な弦楽オーケストラのための作品といえます。彼自身「この作品は芸術的価値に不足はない」と言って、自らこのセレナードをこよなく愛しました。

1878年からモスクワ音楽院を辞職した彼は作曲活動に専念し、一年の半分は西欧で、残りはロシアの別荘地で過ごすという生活を始めました。この作品もその時代の1880年に生まれました。その頃には「ピアノ協奏曲第2番ト長調」、「イタリア奇想曲」、序曲「1812年」、ピアノ三重奏曲イ短調「偉大な芸術家の思い出」などが作曲されています。

第1楽章は「ソナチネ形式の小品」といった意味で、冒頭に現れる荘重な前奏は皆様にもおなじみでしょう。この前奏は第4楽章の集結部にも奏されます。第2楽章「ワルツ」では、宮殿で華麗に舞う貴族たちの姿が目に浮びます。第3楽章はロシアの冬景色を思い起こさせる哀しく美しい「エレジー」です。第4楽章「フィナーレ」ではロシアンダンスのリズムがいきいきとテーマとして現れ、民族色が強い楽章です。全楽章を通して重厚な弦の響きをお楽しみください。

                                  

                                  

弦楽六重奏曲 ニ短調 作品70 「フィレンツェの思い出」 (第54回定期演奏会より)

        説明: 説明: 説明: 説明: Italy by Fuji  2004 045

           

イタリア北部の美しい古都フィレンツェは、チャイコフスキー(18401893)にとって懐かしい思い出の土地であり、幾度となくここで疲れた心を癒すことにより創作意欲を再燃させてきました。最後のイタリア旅行となったこの地で、彼は歌劇「スペードの女王」を書き上げ、その時に着想されたと伝えられるのがこの「フィレンツェの思い出」です。また、この作品はパトロンで知られるメック夫人が、健康を害して、音楽会に自由に出向くことができなくなったため、婦人の邸宅でオーケストラ的な響きの室内楽曲を聴けるようにとの配慮で作曲されました。チャイコフスキーがイタリアで聞いたものと思えるか歌謡風のしらべも、確かにでてきますが、「フィレンツェの思い出」という標題が示すイタリア色は鮮明ではなく、むしろスラブ的な民族色が濃厚です。ニ短調を主調とし、全体に短調が多用されているにもかかわらず、南国的な明るい陽光の射す曲になっているところが、しいていえばイタリア的といえるでしょうか。

曲は4楽章から構成されます。第一楽章<アレグロ・コン・スピーリト>は、活気のある主題に始まり、いくつかの動機を提示したあと、2連譜が特徴的なイタリア風の甘美なカンティレーナが現れます。第2楽章<アダージョ・カンタービレ・エ・コン・モート>は、荘重な序奏のあとに、甘く懐かしい憧れに満ちた旋律がヴァイオリンからチェロ、ヴィオラへと受け継がれていきます。夕日を浴びたかの有名なヴェッキオ橋とアルノ川の一望が目に浮かぶようです。第3楽章<アレグロ・モデラート>は、軽快で陽気なインテルメッツォ風の楽章で、曲想はロシア民謡調です。第4楽章<アレグロ・ヴィヴァーチェ>は、コーカサス地方の踊りを思わせる5音音階の主題による躍動的なフィナーレで、その華やかな曲調はむしろオーケストラ風です。

 

            Telemann        2つのヴィオラのための協奏曲 

18世紀におけるテレマン(16811767)の人気、名声は、バッハ、ヘンデルのそれをはるかにしのぐほどであり、また莫大な数の作品を残したことは、かのギネスブックにも記録されている。しかも、その作曲ジャンルは、声楽、器楽を問わず、また、教会音楽から通俗歌謡にいたるまで広がっており、ドイツ風の緻密なポリフォニーとイタリア風の歌謡性とフランス風のエスプリとポーランドのリズムの生気を兼ね備えた、いわばバロックからロココの時代にかけての音楽の百科全書的な展望を示すものとなっている。この2つのヴィオラを独奏楽器とする珍しい協奏曲は、おそらくテレマン自身が主宰したフランクフルトの市民楽団の「コレギウム・ムジカ」の演奏会用に書かれた作品で、のびやかなソロヴィオラの二重奏と合奏の対比や、平明な響きが、コレルリの合奏協奏曲にも通じる典雅な曲想を生み出している。

 

ヴィオラ協奏曲 ト長調 (第56回定期演奏会より)

 テレマン(16811767)は、ドイツ・バロックの代表的作曲家の一人です。ヨーロッパ各地をたびたび訪問した彼は、バッハやヘンデルをしのぐ人気の持ち主で、ドイツ最高の作曲家と評価されていました。

音楽史上もっとも多作な作曲家の一人であり、その数は膨大なものです。受難曲46曲、教会カンタータ1700曲以上、オペラ40曲以上、室内楽曲350曲以上、協奏曲120曲、管弦楽曲140曲のほか、教会音楽、宗教音楽、オラトリオなどです。

数少ないヴィオラ協奏曲の中で、テレマンのヴィオラ協奏曲は隠れた名曲といえます。1730年頃、テレマンがハンブルグにいた頃に書かれた作品だといわれています。ヴィオラの音色を充分に発揮させる旋律が要所で歌われ、緩−急−緩−急の4つの変化に富んだ楽章からなる作品です。

 

3つのヴァイオリンのための協奏曲 〜ターフェルムジークIIより

(第50回記念定期演奏会より) 

ターフェルムジークは、16世紀中葉以降に祝宴や饗宴で演奏されることを目的とした音楽形式のことを指します。また、その目的で作られた曲集の題名にも使われます。3巻からなる器楽作品集<食卓の音楽>は、テレマンの代表作で、フランス、イタリア、ドイツ、ポーランド、モラヴィアの音楽の要素や様式を統合した生彩に富んだその音楽は、バッハをも凌いだという彼の当時の人気を納得させる魅力にあふれています。この3つのヴァイオリンのための協奏曲はターフェルムジーク<食卓の音楽>2集の協奏曲として存在します。楽しくまた美しく競い合い、掛け合う3本のソロ・ヴァイオリンの音色をお楽しみ下さい。

 

説明: 説明: 説明: 説明: Italy by Fuji  2004 022

 Vivaldi        ヴァイオリン協奏曲「四季」 (第50回記念定期演奏会より)  

バロック時代の巨匠ヴィヴァルディ(16781741)は約450曲にものぼる協奏曲を作曲しました。そのうち約330曲は弦楽器のためのもので、その7割がヴァイオリン独奏を中心としています。中でも最も有名な作品がこのヴァイオリン協奏曲「四季」です。

父から最初の音楽教育を受けたヴィヴァルディは、ヴァイオリニスト、聖職者としての人生を経た後、1703年からは慈善院と女子孤児院で教職者としての道をたどることになります。その間に多くのヴァイオリン協奏曲集が作曲され、1725年には「四季」を含む12の協奏曲集がオランダで出版されました。彼の最大の功績は、ソロ・コンチェルト、すなわち一つの独奏楽器とオーケストラのための協奏曲の形式を確立したことです。これは大抵、急―緩―急の三つの楽章で構成されていて、「四季」もその例外ではありません。

 

2つのヴァイオリンと2つのチェロのための協奏曲 ニ長調 RV564(第56回定期演奏会より)

「四季」「調和の霊感」などでおなじみのイタリアの作曲家のヴィヴァルディ(16781741)は、ヴァイオリ

ン奏者だった父から、ヴァイオリン奏法と作曲法を学び、1703年以降は、生地ヴェネツィアのピエタ慈善院という女子孤児院において、ヴァイオリン教師となり、後には音楽長にもなりました。その教師時代には、生徒の教育用のための作品が多数作られました。

 今日お届けする曲は、音楽のスタイル、用紙、筆跡などのいくつかの点からみて、1720年代かその前後、最も多くの協奏曲が作られた頃の作品中の一つであろうと思われます。

 450曲にものぼる協奏曲のうち、50曲以上が2つ以上のソロ楽器を用いていますが、この曲はそれぞれの一対のヴァイオリンとチェロが独奏楽器として用いられた“複”複協奏曲です。この組み合わせのおかげで、4つの独奏楽器が同時に演奏するエピソードの部分では豊かな音色と込み入った書法を手に入れることができました。

                             

2つのチェロのための協奏曲 ト短調 RV.411 (第25回定期演奏会より)   説明: 説明: 説明: 説明: MCj03520350000[1]

「四季」で有名なA.ヴイヴァルディは、コレルリの次に出現したイタリア・バロック期のヴァイオリン奏者兼作曲家の大家といえましょう。ヴェネツィアの救貧院付属の女子音楽学校でヴァイオリンを教えるかたわら数多くの作曲をし、イタリア・バロック音楽に大きな功績を残しました。

ヴィヴァルディはその初期には、コレルリの伝統を継承した形で、トリオ・ソナタや合奏協奏曲を作曲しておりましたが、次第に楽器のもつ魅力や技巧を歌いあげる協奏曲の作曲に重点を置くようになり、いろいろな楽器による協奏曲を450曲も作曲したといわれています。

この2つのチェロのための協奏曲は、チェロという楽器の持つも力を2つの楽器を使って技巧華やかに呼応させるばかりでなく、第2楽章では、テュッティ(合奏部)のチェロも加わり、チェロの3重奏が演奏されます。

                                         

                            ヴァイオリン、チェロ、弦楽と通奏低音のための協奏曲 変ロ長調 RV.547

(第37回定期演奏会より)

1926年の秋、ピエモンテの貧しい修道院が、豊かな楽譜コレクションを売却する必要に迫られました。その中から、それまで知られていなかったヴィヴァルディの作品が分厚い装丁で14巻も発見され、当時のヴィヴァルディ研究の中心であったトリノ国立図書館に収められることになりました。今日演奏されるこのRV.547と整理番号をつけられた協奏曲もその中の一曲です。ヴァイオリンソロの華やかな活躍はもとより、チェロソロパートに要求される並外れた技巧はまさに驚きです。(チェロは18世紀はじめのこの頃にようやく通そう低音の役割から解放され、同じ音域のソロ楽器であったヴィオラ・ダ・ガンバを凌ぎつつありました。)もしこの曲があの「ピエタ養育院」の少女達のアンサンブルのために書かれたものだとしたら、その少女達の何人かは、非凡なチェロ演奏技能の持ち主であったことが、十分考えられます。

生き生きと沸き立つようなトゥッティと、快活で技巧的なソロが相互に響き合う1楽章アレグロ、通奏低音の波間を美しく漂うように2つのソロが歌い交す2楽章、陽気な3楽章では、ヴァイオリンに引けをとらないチェロの雄弁さが印象的です。

 

                                   チェロ協奏曲 ホ短調 (第36回定期演奏会より)

チェロのヴィルトオーソが多数輩出した19世紀、チェロ協奏曲というジャンルの不足を補うために、過去のヴァイオリン協奏曲やチェロ・ソナタが数多くチェロ協奏曲に編曲された。しかし、時代が反映してか、そのオリジナルを無視した巨匠的な編曲法(無造作な移調、大々的なカット、自由なつぎはぎ)が災いして、後世に大きな混乱を招くことになった事例もある。

本日演奏されるホ短調のチェロ協奏曲も、そういった曲の一つで元来はチェロ・ソナタF.XIV-5, RV.40, P.pag.4として作曲された曲であるが、チェロ協奏曲への編曲は上出来で、非常にポピュラーな曲である。(なお、編曲はパリ・コンセルバトワール教授であったPaul Bazelaireによる。)

第1楽章<ラルゴ>は、甘美な雰囲気をたたえ、第2楽章<アレグロ>は、大きな跳躍がしばしば出てくる楽しいもの。シチリアーノのリズムの叙情的な第3楽章<レント>を経て、第4楽章8分の3拍子<アレグロ>が舞曲風に曲を締めくくる。

 

弦楽の為の協奏曲 ト短調 RV156 (第70回定期演奏会より)

ヴィヴァルディは、通奏低音を伴う弦楽合奏の為に書かれた協奏曲を70曲あまり残しています。

その呼び名は、弦楽の為 の協奏曲又はシンフォニアとも呼ばれます。

何れも急−緩−急の形をとり、10分足らずの作品が殆どで、ソロの出番はありませんが、弦楽合奏としての妙味が味わえます。

 

Warlok            カプリオル組曲 (第44回定期演奏会より) 説明: 説明: 説明: 説明: MCj04350770000[1]

P.ウォロック(1894年〜1930年)はイギリスの作曲家で、P.ヘスルタインのペンネームです。同じイギリスの作曲家ディーリアスに私淑し、その鬼才が期待されていましたが、ロンドンの自宅でなぞの自死をとげ、36歳の若さで亡くなりました。100曲以上の歌曲を残しましたが、器楽合奏曲としては1926年に書いたこの弦楽オーケストラのための「カプリオル組曲」がもっとも有名です。

カプリオルというのは人の名前であり、フランスの聖職者であるT.アルボーの教え子にあたります。その二人の対話体で執筆された舞踊に関するアルボーの著書に「オルケソグラフィー」というものがあり、そこで引例されている16世紀の舞曲のふしを用いて組曲を作曲しました。6つの舞曲から成り立ちます。

 

 

Wiren              弦楽のためのセレーデ へ長調 (第66回定期演奏会より)

ヴィレーン(1905年〜1986年)は、スウェーデンに生まれ、パリに学んだ音楽家です。

パリ時代のストラヴィンスキーとの出会いは、その後の作風に大きな影響を及ぼし、彼は新古典主義にその生涯を捧げることとなりました。

4楽章から成るこのセレナーデは、どこまでも透明感を失わないメロディー、高貴でかつモダンなハーモニー、絶妙のリズム感などセンスと繊細さにあふれた作品です。4楽章の行進曲はどこかで耳にしたことがありそうです。

 

 

 

 

説明: 説明: 説明: 説明: C:\Users\Mieko Sekino\AppData\Local\Microsoft\Windows\Temporary Internet Files\Content.IE5\5GOTRPDH\MC900379929[1].wmf解説者より: 多くの解説を書かせて頂き、その都度とても良い勉強させてもらっています。

まだある弦楽合奏曲のレパートリーをさらに広げていけたら嬉しいです!