『それでも観光』



「それでも観光」した ゼミ生たち
 観光という文化は日本では、とくに庶民階級に限って言えば、西欧に比べても、相当早くから一般化していた。
 江戸時代から、庶民は現在のわれわれが想像する以上に気ままな旅をしていた。長期にわたる旅のほかに、近在への湯治、花見、寺参り、観劇など、物見遊山も日常的に見られる余暇消費であった。
 しかし、これだけ旅や観光についての蓄積された慣習を持ちながら、、近年の私たちの観光行為や観光地の姿には、それが健全に発達したとは言えない面があまりにも多い。むしろそうとうな「ゆがみ」が随所に見られるのである。
 ゼミ生たちは、この認識を基底にすえて、一年かかつて、観光にまつわる過去の姿をノスタルジックに描き出し、現在の姿を批判的に分析し、さらにその先に変容する「今」を観察し、重ね合わせるという複雑な作業に取り掛かった。
 こうして、日本人の観光行為の総体を描出した後で、最後の章で、彼らが考える観光のあるべき姿、理想の姿を提案の形で提示してみたのが本書である。
 作業は難航した。ゼミ生は小さなレポートは書けるが、原稿用紙にして三百枚分の「著作」を共同でおこなうという難題を解いたことがないので、その困難に直面しなくてはならなかった。
 たんにレポートの寄せ集めの報告集や小論集と異なり、まとまった作品の製作には、格別の努力が求められる。常に全体の軸や流れに目配りをしなくてはならない。しかも、自分の論述姿勢を保つことも忘れてはいけない。共同執筆というのは容易なことでないのである。
 ここにお見せするのはその難題に果敢に取り組んだゼミ生たちの涙ぐましい奮闘の成果である。
 『それでも観光』と言うタイトルには、すでにしらけた観光、いびつになった観光を、何とか再生してみようというゼミ生たちのひたむきな思いがにじみ出ている。
 所期の目的が達成されたか心もとないが、おそらく、みんなは長期にわたる作業の苦労を通して、観光文化研究についての何事かを会得してくれたのでないかとひそかに願っている。  (加太宏邦)

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