『観光解体新書』



「教師の腹立ちぼやき」
******(ゼミ担当教員 加太宏邦)

 観光をテーマにしたゼミを主宰していて気になることがいくつかある。
観光なんて、だれでもが自分の体験から語れるし、理解できると思うらしく、論が立つ学生でも、個別の体験から出ることなく、印象だけで観光をあれこれ語り、弁じているつもりになっている傾向が多々見受けられる。
 とくに、観光地や風景の質の問題を論じようとすると、いまどき流行の「好き嫌いは人それぞれでしょう」「きれいだと思うかどうかはひとそれぞれでしょう」という低次元の相対主義が、まず幅を利かすことである。
 人が持つ好みは、文化の枠組みの中で規定されているという、いわば文化科学の基礎の常識に至らない話しに沈み込んでしまい、そこからは浮上する気配がない。
 で、ぼくはしかたなく、卑近な例を出して説明をする。なるほど、ラーメンが好きかカレーが好きかは好みの問題だろう、しかし、相対といってもその程度のことなのだ。その比較の範疇に、ミシンやこうもり傘は入ってこない。このことを考えるのがそもそもの学問の始まりなのだよ、と諭す。さらに、ラーメンであれ、カレーであれ、それを好むことには多少なりとも理由もあり、その理由を整理してしまうと、個別の好みの差はほとんど問題にならないぐらい小さいものとなる。江戸時代の人や異種文化圏の人が、この二つの食い物を知らないという一事を思えば足りることである。君たちが「主体的」に好きだと主張しているつもりでも、文化の枠組みの掌の中のダンスなんだよ。この御釈迦さんの掌がどういう構造をしていているのかを考えようよ、と。

 また、ぼくが残念に思うのは、観光を俗な行為だとみて(実際「俗」なのだが)、学問的に扱おうとしない一部の人たちである。つまり、観光を自然環境や文化遺産に対する加害者としかみられない人たちである。観光を扱おうとしているのは、そういう蛮行の加担者なのかという目つきである。だが、観光はすぐれて人間的行為である。

 もし観光が加害行為なら、日常でじっとしていられない現代の衆生を否定することになる。動けば何らかの意味で、加害者となる。地球を「キレイ」にしたいなら、あるいは異文化に干渉しないようにするなら、人類は今呼吸を止めてじっとしゃがみこんでいればいい。偽善者ぶりというか、自分の行為だけは清く美しくという夜郎自大精神は観光をまじめに論ずるところから遠い位置にいる。観光なんて、善行でも悪行でもない。エコツーリズムなど笑止千万である。あんたがジャンボ機で知床までエコツーリズムしに行かなければどれだけCO2排出が減るか。  さらに言い募る勢いで言うなら、観光カリスマ、というコトバだ。観光の周辺で見聞きするコトバの中で、耳障りなものの一つである。
 観光とカリスマとはもっとも縁遠い概念であるからだ。
 古代ギリシャ語に始まる「カリスマ」というのは、いうまでもなく、旧約聖書に見出される超越的で霊的な力を指し、要するにあやしい支配力をいうのである。のちに、マックス・ヴェーバーがこの語を用いて、支配概念の一つとして類型化したことでよく知られているが、簡単に言うなら、支配と被支配を規定する関係論のひとつである。
 観光地の策定や改良に支配力などは何の関係もない概念である。観光と結びつくと奇妙なだけでなく、不穏なひびきを与える。こういう語感にどうして鈍感でいられるのか不思議なくらいである。
 観光は経営学の対象にしてはいけない、というがぼくの主張である。経済効果は結果でしかない。そしてそれを目指すのは悪いことではないが、手腕が経営的であることが問題なのだ。ヴェネツィアが世界で有数な観光地であるのは、経営的な成功の賜物ではない。カリスマなど何の関係もない。
 観光の理論なくして、経営を行えば、あのバカげたリゾート法で全国に作られた巨大倒産施設になったり、西武開発型のスキー場、ゴルフ場、リゾートホテル群の醜悪な姿になったりするのである。
 ビジット・ジャパン計画もその点では、でたらめな政策だといえる。日本橋の上に高速道路を敷設したお歴々が、日本へようこそいらっしゃいと言っているのだ。日本の風景をとことんまで破壊して、美しい日本を見よ、とは、どういう神経であろうか。もし、観光を政策的に扱うなら、戦後の風景の変容についての総括から始めなくてはならない。道路敷設行政は何をしてしまったのか、都市計画や町並み整備は何を破壊し続けているのか、市町村合併は瀕死だったちいさな伝承文化の息の根を止めなかったか、減反によって農地や農村風景はどう醜く変容したのか、森林を貫くスーパー林道は、河川改修事業は、海辺の埋め立ては……。
 だから、そういう似非観光立案者から距離を置くためにこそ本書は編まれたのである。観光学というのは、合理的に、人間の不合理な行為を眺めることから始まるのだ。
 ガクモン的に未熟でも、学生が、そのつもりになれば出来ることがある。
先入主を捨てましょう。淡々と観光を要素に還元してみましょう。要素を再総合しましょう。どう総合するかを考えることによって観光とはなにかに接近してみましょう。
 これがこの本の出発の地平である。
 そう仕掛けたものの、じつはこれは、壮大な、いわば向こう見ずの企図だったのだ。ぼくが船長ではあるけど、そんなに優秀ではないから、かえって弱気の水手(かこ)おびえさせ、あるものは船底へ逃避したり、操舵手もしばしば羅針盤を読み誤り、蛇行と退行の連続。大洋を渡りきれるか、そろそろ救難信号を揚げたほうがいいのかもしれない、と危ぶまれることがしばしばあった。
が、それでも、乗りかかった船から下りるものはいなくて、一年間の大航海を苦闘したゼミ生水夫は、疲労困憊の体ではあっても、それでもなんとか小さな港に船を入れることができた。まずは、安着を寿ぎたい。そしてこの港が彼ら彼女らにとっての所期の目的地エルドラドであるかどうかは、読者諸賢のご批判に待ちたい。
 だから、このゼミで企画したこの「日本らしい」談義は冗談ではない切実なものがあった。
 まじめに考えよう。これが、この本の企画のはじまりだった。東京23区に限って「日本らしさ」を構成してみよう。
 観光的に日本らしいのは、歴史的遺産だけではない。ちょっと昔、といういわゆるレトロ造りもその候補になるかもしれない。あるいは、世界に冠たるマンガやアニメをフィーチャーした秋葉原や渋谷のポストモダン的賑わいもおおいに目玉になりそうだ。庶民の生活があふれている下町商店街や無機質なビジネス街にうごめくサラリーマン群や、ラッシュアワーだっていい観光ネタかもしれない。
 問題は、これらをどう見せるかである。スポットだけでは、観光者には魅力がない。ヴェネチアは、どこをどう歩いても観光気分に浸れる。まず、面で構成していかなくてはならないのだ。日本らしい雰囲気を漂わせている界隈を再構築してみよう。そしておまけとして観光の魅力を発散する「点」もありだ。
 企画をたてるのに春休みをすべてつかった。およその筋が見えたところで、14人は23区を手分けして、徹底的に歩き回った。連日のように都内へ取材に出かけ、ネタを発見する作業を繰り返した。そう簡単に「日本らしさ」がころがっているわけではない。
 こうやってほぼ一年を費やし、夜遅くまで、毎日のように作業をした成果がこの「日本らしさ」のレポート的ガイドブックである。あたらしい東京がこれで少しでも見えてくれば幸いである。
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