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『荷風のリヨン』 より
下宿の女将ランボー・コレ夫人について
 …さいごに荷風の下宿の生活についてすこし付け加えておかなくてはならないだろう。
 〈ベデカー〉に勝るとも劣らぬフランスのガイドブック「ギッド・ジョアヌ」〈”ギッド・ブルー”の前身)の1907年版(荷風の滞在年度)で、この下宿が紹介されている
 それによると、この下宿は、部屋代が一日、2フラン50サンチーム、朝食が50サンチーム、昼食と夕食はそれぞれ2フランで、普通は、朝夕の食事で契約するので、下宿代は一日5フランだった。これを中の上程度のホテルでの料金(7フランから10フラン)と比べると、ほぼ三分の二から半分の料金になる。長期の滞在なのだから、妥当な値段ではある。これで月に150フラン、そのほかに石炭代(暖房費荷風の部屋には暖炉があった)とか洗濯代、シーツの取替、女中への心づけなどで30フランというところか。つまり月に180フラン。このランクの下宿となると、110番地の下宿にいる労働者などは手が出なかったはずである。荷風とほぼ同じ月給を受けていたと思われる滝澤敬一も自分の下宿を「安月給取りでは寄り付けず、客は多くは外国人で・・・」とのちに記している。当時の日本人銀行員の給料はかなり高かった。小野の俸給も、リヨンでベスト5に入る高給だといわれていたそうである。
荷風の月給は、いくらだったのだろう。「雲」で主人公の外交官の貞吉の月給が諸手当をいれて月800フランという。貞吉は35歳であるから、27歳の荷風より年上で、かつ外交官。荷風は銀行員、それも一番下っ端だったろうから、おおよその推量であるが、500フランぐらいだったか。
 たぶん、「毎日、同じ料理、同じ下宿人、同じ絵の額、同じ壁に対する」のは荷風のことだからかなり面白くなかっただろう。けれど「寒い冬に出遭(であ)ったまま、急にいじけて、下宿屋の食堂でおとなしく食事を」していることが多かったかもしれない。ほとんど日本人とのつきあいをしなかったと言うから、外食しても一人、下宿にいても単調。どちらもつまらなかっただろう。
 とっかかりができると、調査はやりやすくなる。周辺の資料をあさるうちに、下宿の主人のことがだんだん見えてきた。
 主人はアタール・ランボーという当時68歳の人で、さきにふれたように三番地続きの大きな建物にこれだけの止宿人を収めることのできる部屋を所有していたのだから、相当な蓄財家だと思われる。出身は、リヨンから南西に20キロほどにある当時人口1700人ほどのモルナンという村であった(当時、村はとリヨンと鉄道でむすばれていた)。さらに調べていくと、ランボーという姓は、当時リヨンには46軒もあり、その出自はわからないが、前歴と職業が分かってきた。アタール・ランボーはフォンテーヌ・シュル・ソーヌ村で公証人をしていた。この村はリヨンのすぐ北にあって、今では広域リヨンに含まれる自治体である。
公証人というのは日本では弁護士や判事の隠居仕事といわれるが、フランスでは中世以来、ある種の名士である。1945年までは、公的な資格をもっていたので、その意味では村長の次に名前の並ぶぐらいの格はあった。長らくここで公証人をしていたランボーは1903年に引退し、その〈営業権〉を後任に譲り、リヨンに出て来た。リヨンでも公証人は当時、定員が30人(戦後は、公証人高等専門学校または法学部の大学院修士課程終了の後、一定期間の実務経験のあとに開業資格を得るように制度改革がなされたが、それでも現在でもリヨンには100人程度しかいなくて、弁護士が1050人もいるのにたいしてやはり少数である)と決まっているほどの特殊な半世襲的職業である。アタール・ランボーは、リヨンにある公証人組合の事務所に引退後の席をおき、管理部の文書室長(おそらく実際には仕事をしない名誉職だと思われる)を務める。そして、1911年の秋頃には組合の名簿からもその名前が消える。おそらく亡くなったものと思われる。いずれにしても、ランボー夫妻がこのヴァンドーム通りの新築の建物にアパート部屋を大がかりに買うことが出来たのは公証人の権利移譲金をもとにしていると思われる。またサン・ポータン教会のいわゆる信徒代表もしていたようである。同名の人物が当時の教区信者名簿の筆頭に見いだされるからであるが。その意味では篤実な人物だったのかもしれない。
まあ、主人はどうでもいい。荷風が下宿屋の人物について言及しているのは、食事の用意ができたと呼びにきた「下女」と「物言云いの恐ろしく丁寧なだけ慾には抜け目のな無さそうな宿の内儀(かみさん)」の二人である。女中は、まえにふれたように二人いる。二人とも21歳で、一人はジョゼフィーヌ・ペルラン、もう一人はマリ・フランドール。このどちらかが、青年荷風を呼びに来たのであろう。厨房はイタリア出身の26歳の女性マリア・シャベルが担当していた。
 「内儀」の丁寧さは、夫の職業の社会的な位置からなんとなく納得がいく。また、慾には抜け目がなさそう、というのは、夫の元の職業や財産からみて、わざわざ下宿屋を開業しなくてもよさそうに思えるのにあえてこういう〈事業〉に手を染めようとしたことからうかがえる。<br> 「内儀」というのは、旧姓をコレといい、地元リヨンの出身である。名前はシャルロット、歳は58歳である。1921年の調査(1916年は大戦中で調査が行われなかった)ででも、まだ「下宿屋」をしているのであるが、やや得体の知れないしたたかな顔をのぞかせている。
 下宿屋を開業することは、彼女の発案であったろう。というのは、このとき主人はもう当時としては高齢で、文書室長とは言え、事実上は名誉職で社会的な活躍はやめていると思われる。あるいは公証人を引退しいたのは病気が理由だったのかもしれない。すくなくとも、『リヨン住所録』のほうには、亭主の名前は、まもなく記載がされなくなるのである。そして、一方、彼女は、『リヨン住所録』の職業別欄では、企業以外は、原則、名前と住所という一行掲載であるのにたいして、彼女はで異例の九行も使用して、かなり目立つ宣伝をしているのがみつかった。

ランボー・コレ夫人
 ヴァンドーム通り109〜113番地
 別館セーズ通り23番地
 モラン大通りに至近
 設備最新
 部屋貸しまたは家族向けアパート
 家具付
 一階、二階、三階
 希望に応じて賄いのみも可能

「夫人」(マダム)というのは、未亡人でなく、ちゃんとした「奥様」だということで、フランスでは、未婚の女性(マドゥモワゼル)と未亡人(ヴーヴ)に比べて社会的なステータスが高い。
 ヴァンドーム通りは、三区にまで抜けていく通りで、あまりぱっとしないイメージしか与えない通り名というのはまえにふれた。そこで、ランボー夫人は、「モラン大通りに至近」だと書くことをわすれない。モラン大通りは、東西に走る第六区の東西に走る目抜き通りである。すでに支店長宅をのべたときにふれたあの「モラン広場」から始まる通りである。並木の大通りで、路面電車も通る高級住宅地(現在のルーズベルト通り)なのである。今日でいう「黄金の三角地帯」の始まりである。不動産広告の常套である借景惹句とでもいえよう。
 県の地籍調査局でしらべて分かったのだが、設備が「最新」というのは、この建物が1896年に新築されたものだからであるであり、。したがって、この表現はまんざら誇張ではないだろう。当時この界隈に新築ラッシュがあったことにふれたが、この立派な建物もそのひとつだったのだ。この土地には以前は小さな貧しい家が立ち並び、傘なおし屋(傘屋でない)、靴なおし屋(靴屋ではない)、食品屋、小間物屋、日常雑貨店などつつましい職業の人々の住まいになっていたのが取り払われてひとつの建物が建てられたのである<br>
「一階、二階、三階」というのは、一般にエレヴェーターのない時代の効果的な宣伝文句で、ちょっと感心する。ただ、階については、ほんとうにそうだったかは分からない。だからつまり、荷風は五階目に割り当てられていた可能性もないわけではない。
食事時は、「宿の内儀(おかみさん)を正座(しょうざ)にして」下宿人がともにテーブルを囲む。一見和やかな風景ではあるが、では、主人や娘達はどうしているのだろう。内儀だけが、なぜ下宿人と一緒に食事をするのだろう。
 こういう食事形態をとるということは、下宿風に机を並べた専用の食堂があったことを意味する。この点で、110番地の賄い宿ではこうはできない。机をこのように配置してしまうと、食堂として一般の客を迎えることがむずかしくなるからである。フランスでビストロ(軽食堂)というと、全国どこでも決まりきったスタイルというのがある。110番地の食堂はこの形をしていたはずである(ちなみに今も110番地と116番地のカフェはそういうスタイルのままである)。またこれらは一階にあるため通りから中が透けて見えるので荷風の叙述する食堂の内輪な雰囲気とは異なる。やはりこの食堂はあくまでランボー夫人が威光を示す特別な環境のところなのだ。
 のちの『リヨン住所録』では、三つの続き番地すべてに所有者として彼女の名前が記載され、主人夫の名はなく、しかも彼女の職業は「下宿屋」である。さらに、この近辺をよく調べてみると、翌年には彼女はここのほかに、ヴァンドームの96番地に賃貸アパートを持ったことがわかった。いずれもランボー・コレ夫人としてのが所有になっている。
彼女には、二人の娘がいたが、荷風の当時に、28歳と30歳で、この二人は、どうやら終生独身で、かつ無職だった(ただし、1921年の調査では、母親と同じ名前をもつ妹のほうの職業欄には「英語・音楽教師」と記載されている。四十二歳で唐突に教師として登場するのもいささか奇妙である)。さらに、どういう事情なのかわからないが、「内儀(かみさん)」は、世帯調査のたびに、生年を変えて、あるいは空欄にして登録し、かつ、私がみた限りでだが、四人の異なる亭主をそのつど持ち、しかも、その主人と言うのが、いずれもその苗字が共通してランボーと記載されているところをみると、初めの主人の兄弟(と思われる)なのだろうか。不思議としか言いようのない女性である。
 これは大胆すぎる推測かもしれないが、彼女は一種の虚言症ではなかったか。夫のアタール・ランボーを喪ったあと、未亡人(ヴーヴ)と呼ばれるのを避け、あくまでマダムであることを通すために、架空の夫をそこに記載し、それは、ランボー姓でなくてはならず、このため、都度違うファーストネームをそこに発明しなくてはならなかった。さらに、そのつじつま合わせに、自分の年齢も詐称し、娘のひとりに英語・音楽教師などという職業を捏造したのではないだろうか。荷風の描写にある「恐ろしく丁寧」と「慾には抜け目のな無さそうな」という二面性がやや奇異な感じを私たちに与えるのは、そのような彼女の精神構造的な背景が横たわっているせいかもしれない。
 ちなみに、この下宿屋は1922年に忽然と姿を消す。1906年の世帯調査を信じるならで申告した生年は1849年生だから、73歳。彼女は亡くなったのか、その家作は、奇妙なことに匿名のNとのみ記されている人物が引き継ぎ、翌年には、それも跡形もなく消えてしまった。Nは「公証人」(Notaire)かもしれない。夫のもとの同業者のだれかが処分してくれたのか。
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