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|観光・旅・風景|TOURISME, VOYAGE, PAYSAGE

ジョン・アーリ/加太宏邦・訳
『観光のまなざし』
John Urry: Tourist Gaze
法政大学出版局
 1995;2: 289p.

加太宏邦・監修

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日本、観エタヨ。

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(山下大厚監修)

それでも観光

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『観光のまなざし』John Urry : Tourist Gaze (traduction japonaise)

 学問はいつも日常的経験に遅れをとる。暮らしの中で日々経験していながら語りおこされないものは多々あるが、「観光」もその最たるもののひとつだろう。海外旅行から一時の温泉ブームまでこれほどツーリズムがさかんなのに、学問はおろか、まともな論さえないのが現状だ。
 そんななかでようやくでてきた観光論が本書である。著者のキーワードはタイトルにあるとおり、観光の「まなざし」だ。わたしたちは、何かを見たいと思ってどこかへでかけるのだが、わたしたちのその眼の欲望はいったいどのように組織されているのだろう?[...]
 遺産産業のしくみなど、イギリスの事例も読みどころのひとつだが、現在にきりこむポスト・ツーリスト論がやはりいいちばん面白い。
 『日本経済新聞』 1995年3月19日 書評欄(評者・山田登世子)[一部抜粋]

 冒頭からいきなり、身体器官に対する新たな記述(まなざし)の発見と変容について語ったミシェル・フーコの『臨床医学の誕生』からの引用ではじまるこの本は、タイトルにもまさに「まなざし」という言葉を使っている。観光もまた、フーコーが語ろうとした「まなざし」の問題と不可分であり、観光の歴史的変化は、それを行ってきた人々や社会の「まなざし」の変容の歴史であるというのが、著者の理論的な大きな枠組みとなっている。
 たしかに、観光は、温泉旅行や名所旧跡めぐり、そして博物館めぐりや流氷見物にいたるまで、何を選択するかは、わたしたちの思考や感覚をふくんだまなざし(それはもちろん文化的制度と深くかかわっているのだが)の差異を投影している。[…]
 本書は観光を対象に約二百年の文化変容を社会学的に捉える試みをおこなっているといえる。
 『朝日新聞』 1995年3月26日 書評欄(評者・柏木博)[一部抜粋]

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日本の観光プラティクと余暇問題(一部抜粋)
La pratique de tourisme et le problème du loisir au Japon
(村串仁三郎・安江孝司編『レジャーと現代社会』法政大学出版局 1999年 所収)
 ハコモノ観光開発
 一九八七年「総合保養地域整備法」(リゾート法)が「ゆとりのある国民生活」の実現をはかるために施行され、全国四二地域に開発承認がおりた。投資額は民間二兆五〇〇〇億円、自治体七〇〇〇億円、関連投資(道路などのインフラ)が五兆円。これらについては、言うまでもなく、「できたのは巨大なハコばかり」(「日本経済新聞」1998.8.23)で、しかも、運営が成り立っているのは二割もないという。
 宮崎県の「シーガイア」(フェニックス・リゾート)を例にとってみる。ここは、同法の適用の第一号指定で、一九九三年にオープンしたリゾート総合施設である。内容をかいつまんで紹介すると、開閉ドーム式プール(全長三〇〇b、幅一〇〇b、一万人収容)、地上一五四bの四五階建て、客室七五三のホテル・オーシャン45、五〇〇〇人収容の国際会議場、ゴルフコース、観客席二〇〇〇のテニスクラブがあり、その総事業費は二〇〇〇億円だった。しかし九七年度決算で一八七億四二〇〇万円の赤字、累積損失は九三八億九七〇〇万円に及んでいるという(「週刊ダイヤモンド1998.8.15・22合併号」)。白い海岸線と美しい松林の一部をつぶして(リゾート法の適用を受けたため、ここの保安林は解除され開発許可がおりてしまった)この「保養」施設は建てられた。
 このケースには日本人の余暇についての思考パターンが象徴的に現れている。まず、モノ主義。これは二つの面で指摘できる。開発そのものが目的化してしまっているモノ生産主義。もうひとつは、施設(モノ)を提供することが余暇サービスになるという施設主義。またここには、自然破壊が「保養」と矛盾していることのついての鈍感さがある。手つかずの松林で憩う方法(快楽)についての想像力の欠如。[...]

 このことと関連して、余暇消費研究の大きな一角を占める観光学については、わが国では、経営学領域で扱われることが多い。もちろん、経営学それ自体は観光の研究にに関して重要な知見を提供するが、しかし、あくまで後方支援にとどまるべきであろう。日本の自治体では観光についてを扱うのは、九九%が、いまだに「商工観光課」か「産業観光課」であり、「観光文化課」という呼称をもつのは松江市や「観光文化局」をもつ沖縄県(ただし、この局はどういうわけか商工労働部の下に位置づけられている)などきわめて稀である。自民党内でも「観光産業振興議員連盟」となっている。このように、観光を産業と結びつける姿勢だけでほんとうに今後の国民の余暇消費を実りあるものにすることができるだろうか。観光は、「文化」や「生活」にこそかかわり、これが結果として産業の大きな一翼を担うと言う理解であるべきではないか。[...]

景観と観光文化
 観光に重大な関係を持つものに風景がある。日本の風景がどういう特質を持つのかということ、また、景観と観光資源との関係についてを「個人主義」の観点から考えてみよう。
 景観について、これをどう考えるかという問題は、日本ではかならずデッドロックに乗り上げてしまう。美醜の判断、美の好みは個人の問題だという決め付けがあるからである。美学が説くところも、所詮「美」の判別は共同認識、パラダイムの問題に帰するものとし、その中で個体差があるのだという。しかし、そうであるからといって、景観の美醜を俎上に上げることを閑却し、低レベルの相対主義に話を持ち込み、検討を放棄する怠惰な態度をとることが正当化されるとも思えない。この問題こそ公共の話題にすべきなのである。もう一つの障壁は、「美」では食べられないという経済優先論である。一定ていど真理であるとしても、この立論は絶対ではない。生活上の快・不快がモノに優位に立つ場合は十分にあり得るし、究極のところ、人の生涯を通じての幸・不幸は何に依拠しているかは実のところ経済優先者が考えるほど単純ではない。物質的基盤が成り立ってのち「美醜」の問題が俎上にあがるという口実のもとに、たとえば、日本ではいつまでたっても、電柱の埋設の是非についてや看板の規制(「屋外広告物法」のような、現実に、美観に資するところのない法ではなく、むしろ自己規制であるべきだが)論議に踏み込まない。生活空間の中に電信柱と電線の張り巡らされた空がいつもあるのと、、スッキリした空と並木があるのとでは、いわば「生涯総快楽度」は異なるはずだ。ただ計数化できないだけである。計数化できないという理由で行政も政治家も動かない。しかし、経済効率優先社会で隠蔽されてしまった「計測不能問題」はじつは山ほどあるのである。[...]

 運輸省経済研究センター(一九九四年)のアンケート調査によると、海外旅行対国内旅行で、海外の方が魅力的なのは、@「割安」感A「観光資源が魅力的」があるという。ここでいう観光資源は種々の対象物をさしているだろうが、だれしもが感じている景観の美が大きな部分を占めることはまちがいないと思われる。とくにヨーロッパ観光については、私たちは都市美や自然景観をきわめて魅力に感じ、それを暗黙の旅行動機にしているともいえる。
 こういう統計やアンケートの数字で処理できない「魅力」について議論をはじめると、さきほど述べたように、個人的な印象の問題だという相対主義でもって、一蹴されてしまいがちである。しかし、現実に、たとえばランダムにイタリアのどこかの町と日本のどこかの町とを比較して、それぞれの美しさや魅力について、これは相対主義や好みの問題であるから、甲乙付けることはできないと自信を持って言いきれる人がそんなに多いとは思えない。
 私たちは、毎年、学生たちと関東の任意の町を選んでガイドブック制作を行っているが、その最大の困難は、町並みの魅力、快適さ、美が見いだせないことである。いきおいガイドする対象は古い寺や城址や美術館など「点」の案内にならざるを得ない。現代の日本の都市で、ベンヤミンのいう「フラヌゥール」として魅力を感じて何日も歩けるような「面」の魅力をもった町はまれである。たとえば、スイスの首都ベルンは、町がすっぽり「世界遺産」に指定されている。こういう町では、いわゆる名物的なスポットがなくても何日でも滞在して快適である。せめて、まず、電信柱も電線もない、広告や看板(とくに巨大な袖看板、屋上広告、ステ看、幟広告など)が出しゃばっていない、ジュースなどの自動販売機がない、パチンコ屋・ファミリーレストラン的画一的景観もないような町を形成することを好む人が増えてこなくてはならない。

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観光的なもてなしを考える(一部抜粋)
Sur l'hospitalité touristique
(『観光文化』149号 2001年9月 財団法人日本交通公社)  
「客」という日本語は、ヨーロッパの言葉に移し替えるときに多様な訳語に別れるのだが、いま、そのことには深入りしない。
じつは、欧米にも、「お客様は神様です」式の表現はある。The customer is always right(仏語でLe client a toujours raison)、すなわち「客の言うことは常に正しい」である。また、「客は王様」という表現もある。Le client est roi(仏語)、Der Kunde ist König(独語)などもたしかに、目にすることがある。
 しかし、これらは、一般的には「お客って(王のように)扱いにやっかいなものだ」とう軽い皮肉な表現である。また、店に堂々とこういう標語を掲げてあるのを見ることがあるが、この場合は、もちろん、店員向けの訓辞でなく、客に対して、「この店では、あなたが 主人公です」とアピールして、「だからくつろいでください」と呼びかけているのである。決して卑屈な意味を持たない。
こういう違いは、「客」の概念の文化的な差から生まれている、といえる。かいつまんで言えば、ヨーロッパ語での「客」という言葉は、ラテン語のhospesにさかのぼり、これが「客」と同時に「敵」(形容詞hostileなどに残っている)も意味した。客は怪しい異人だからである。異人は、注意して扱う必要があり、ここからホスピタリティhospitalityが生まれたという。つまり上下のの関係でなく、あくまで、他人を共同体に取り込むために対等化する(仲間にする)努力がそこでなされるのである。Hostという語に「主人」と「客」の両義があって、正反対の入れ替え可能な兌換関係になっているのはこういうわけである。
 一方、日本では、客はいわゆる「まれびと」で、これは遠来の「神様」だった。したがって、この来訪神に対してはひれ伏さねばならない。すなわち圧倒的な上下の関係こそが日本のホスピタリティなのだ。
 こういう目に見えない伝統がどの程度影響しているかは別として、明らかに、ぼくたちの周りにみられる接客は、過剰だったり(奴隷的)、場違いの自己満足だったり(独善的)、マニュアル漬けだったり(形式的)しているものが多い。一方、客側の横暴さも目に余るものがある。これも日本的な特色だろう。ぼくのまわりにいる学生たちが、就職先として、「高度接触サービス業」に就きたがらないのは、かれらのアルバイト体験から、人間ロボットを養成するようなマニュアルに加えて、客の横暴を知るからだと言う。二一世紀になって、もっとも成長するといわれる観光サービス業における労働環境が、この状態では、よい人材も集まらないし、悪循環することが憂慮される。

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