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|フランス文学|


「こんなところに住んでみたい…」

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  • 南西地方の光
  • 天気
  • サナトリウム
  • レザン村
  • マルサスの人口論
  • 意味の病
  • 魔の山
  • 世界の外から外の世界へ
  • 取るに足らない不幸
  • 病の意味

[キーワード]

  • ロラン・バルト
  • 肺結核
  • サナトリウム
  • スイス
  • マルサス
  • シェリー
  • フランケンシュタイン
  • ロマン主義
  • 北と南
  • 旅するランボー

田辺保編『フランス わが愛』所収
(青山社)2000年5月刊
マルサスの人口論
 レザン村の環境や日光が結核治療に効能があるという客観的なデータがあったわけではない。
 この村が外の世界にも知られるようになったのは、マルサスのおかげ(せい)で、一九世紀初頭のことである。そもそもレザン村は、唐突に結核につながったのではない。まず、レザン村は「長寿」とつながったのである。それはマルサスが、かの『人口論』の第六版(一八二六年)で、レザン村の平均寿命(六一歳)が他のヨーロッパ諸国のそれと比して「異常に高い」のは、「ここの空気ほど清純衛生的なものは恐らく類がない」(寺尾琢磨訳)ことによるのだろうという記述をしたからである。
 マルサスの『人口論』の出版から、にわかに村は脚光を浴びるようになり、近在の村々から治療のため訪れる人が増え、村の人口が一八二八年ごろから急にふくらみはじめた。当時は、結核の治療のためではなく、大方は、甲状腺疾患の治癒のためであった。かつてのスイス旅行記には必ずその観察記述が見られる、いわゆるクレチン病で、これは甲状腺機能低下症のことで、スイス山間部に異常に多かった。塩不足ともヨード不足ともいわれるが、独特のクレチン顔貌を呈するので、旅人の目に付くのである。
 マルサスが、この『人口論』を執筆したのは、ウイリアム・ゴドウィンに反駁するためであったと、前書きで述べている。このため、初版の副題は「ゴドウィン氏、コンドルセ氏その他諸家の研究に関して、将来の社会改良に対する影響を論ずる」となっている。
 言うまでもなく、ゴドウィンといえば過激なルソー主義者で、『政治的正義の研究』で知られ、同時代人からは「悪魔」と呼ばれた(ただしJ=J・ルセルクルによれば「二流の悪魔」)。また、ゴドウィンの妻は、フランス革命に熱中のあまり、わざわざ革命の最中のパリまで出かけた女性で、「急進的な女権拡張主義者」(スティーヴン・バン『怪物の黙示録』)で、『女性の権利の擁護』の著書で知られたメアリ・ウルストンクラフトである。この強烈な両親の血を引く娘のメアリは、のちに「狂人」と呼ばれたパーシー・ビッシュ・シェリーと不倫の逃避旅行の末に、結婚、バイロンなどと共にロマネスクの「怪物」[フランケンシュタイン]を生むことになる。

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フランケンシュタイン
 一八世紀、フランケンシュタインはルソーと同郷のジュネーヴ共和国の「屈指の著名な家系」の青年として生まれ育った(引用は『フランケンシュタイン』山本政喜訳を使用)。
 メアリ・ウルストンクラフト・シェリーのこの有名な作品『フランケンシュタイン』(映画化されること実に五〇回!)は、知られるように、バイロンやイギリスロマン主義の中心的詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの示唆によるが、その誕生にはどうしてもスイスが必要だった。シェリーとメアリは、一八一六年の夏にスイスのレマン湖畔でバイロンや彼の愛人などとそれこそ「ロマネスク」を地でいくような放埒な滞在をしている。バイロンが怪奇物語を語り、さらにみんなで創作怪奇物語の競作を提案した。その結果がこの『フランケンシュタイン』であった。ついでに言えば『吸血鬼』もそこから生まれた作品といえる。
 彼女がアルプスの山々を巡る旅をしたのもすべてが「ロマネスク」が生んだスイス滞在だ。アルプスがロンマンティクの対象になるのはバイロンなど(フランス人以外の)ヨーロッパ人、とりわけイギリス人のまなざしを必要とした。メアリ・シェリーは『フランケンシュタイン』の中で、「山々の荘厳な形、四季の変化、嵐と凪、冬の沈黙、アルプスの夏の生気と躍動」と嘆賞し「湖水は青くて穏やかな空を反映し」「こうごうしい風景」と描写をする。

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光のない北をめざす怪物
 モンブラン(「最高至大のモンブランがまわりの尖峰からぬき出て」)とアルプスの「崇高」(エドマンド・バーク)イメージがすでにここにも見られだけでなく、実際に、メアリ・シェリーのシャモニーなどの描写にはこの用語が使用されていることからも、時代精神は、すでにアルプスにたいして、「恐ろしい」けれど「実際の危険を伴わない」という認識の境界閾にあったことがわかる。
 ヴィクトル・フランケンシュタインは、かくて、氷雪を求め、北を目指す。ドイツからオランダ、イギリス、スコットランドへ、そしてロシアの荒原(「寒気」「欠乏」「疲労」「山のような氷がわたしの行く手をはばみ」「氷が割れ」)へと北上を続け、北氷洋で救助されたものの船上で死ぬ。怪物のほうはさらに、「氷の筏に乗って」「地球の北の果てまで行く」「光も、感情も、感覚もなくなって」死に絶える。「光のない」北の果てへ行って「死ぬことが唯一の慰め」という。

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こんなところに住んでみたい・・・

 「こんなところに……」というつぶやきは、アーチ型になった古い家とアルハンブラ城壁の道とそこに横向きに座る男が写っているグラナダの町の古い写真(一九世紀中葉)に、ロラン・バルトがつけたキャプションである。グラナダはバヨンヌのさらに南七〇〇キロに位置する。
彼の実質的な遺著はこの写真の載っている『明るい部屋』であった。最後まで明るさを気にし、(ユートピアとしてでなく「アトピア」atopiaとしての)南を求め続けたバルト。健康なバヨンヌ、病の発症と死を招いたパリ、そして完治の機会を与えたにすぎない陽光あふれるスイスのレザン村の南斜面。バヨンヌからさらにグラナダへ、南へ、南へ……。
 リヴァロルはもしかしたら、「明るくないものはフランス的ではない」と言ったのではなかったか。
 『バルトによるバルト』の最後の一節---。

八月六日、バヨンヌ、快晴の一日の始まり、太陽、熱暑、花々、静謐、陽光。

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