加太宏邦
KABUTO hirokuni
W E B S I T E

研究分野
Champ
H O M E
Accueil
仕事と成果
Travaux

授業・ゼミ
cours
séminaire
スイス文化
culture
suisse
フランス文学
littérature
française
観光・旅・風景
tourisme
paysage
その他
autres
textes



|スイス文化研究|CULTURE SUISSE

『スイス詩集』Anthologie suisse(共訳)
早稲田大学出版部 1980;2:pp.51-88 & pp.373-381(解説)
加太宏邦訳「ロンドー」(オトン・ド・グランソン)「なげきぶし」(ブレーズ・オリ)「通りすがりの君」(アンリ・スピース)「新聞」(ブレーズ・サンドラール)「藁の夜」「リュスリの粉挽き小屋」(ギュスターヴ・ルー)「一本の小径のために」「私の席」(アンヌ・ペリエ)「石の、思惟の重さ」「青い色した花」「静謐」「この世の始まりは問わない」(フィリップ・ジャコテ)「解説・フランス語圏の詩について」
『スイス民話集成』Légende suisse(共訳)
早稲田大学出版部 1990;7: pp.318-402 & pp.455-465(解説)
加太宏邦訳
「歴史伝説”ペスト塚”など8篇」
「幽霊と溶解の伝説”赤い牛”など6篇」
「悪魔伝説”シュヌグーダ”など3篇」「魔女・魔法使い・妖精の伝説”エセルツェの妖精”など2篇」「その他の民話”のろい”など13篇」「解説・フランス語圏の民話について」
R.テプフェル『アルプス徒歩旅行』(加太宏邦・訳)
Rodolphe Töpffer : Voyage autour du Mont-Blanc
 図書出版社 1993;2: 351p.
『ラミュ短篇集』(共訳)Recueil de Nouvelles de C. F. Ramuz
夢書房 1998;12: 250p.
加太宏邦・訳
・ファーヴル親爺の最期 La Mort du Grand Favre
・チビ Mousse
・守衛の馬 Le Cheval du Sceautier
・山の中の呼び声 Voix dans la Montagne
加太宏邦・著『スイスの旅』Guide de la Suisse (ガイドブック)昭文社 1987;7: 304p. 『スイス』(地球の歩き方)La Suisse(共著)(ガイドブック)ダイヤモンド社 1988;7: 400p.加太宏邦担当「トゥーン」他
『ヨーロッパ』L'Europe(共著)(ガイドブック)昭文社 1995;5:366p.加太宏邦担当「スイス」(pp.215-238) 加太宏邦「スイス・ロマンド文学という制度」La littérature romande comme institution
『スイスの歴史と文化』刀水書房 1999;1所収: pp.389-413
加太宏邦「スイスという方法について」La manière suisse 『hazama technosphere No.11』1996;6: pp.8-28 加太宏邦「スイスが溶ける日」」Le jour où la Suisse se fond
『岐路に立つスイス』刀水書房 2001;4所収: pp.135-164
"Ontologie de la littérature romande" in ECRITURE 37, (Lausanne) 1991;4: pp.270-276 "Réception décentrée de Ramuz ou le centralisme littéraire"『社会労働研究 40-3.4』1994;2: pp.418-431
「ヌシャテル書簡、又はシャリエール夫人の醒目」Lettres neuchâteloises ou Isabelle de Charrière désabusée 『研究誌 9』(金蘭短大) 1979;2: pp.1-15 「ベア=ルイ・ド・ミュラ--18世紀スイス・ロマンド文学者のいちプロトタイプ」Béat Louis de Muralt prototype d'écrivain romand 『人文社会科学研究 21』(早稲田大学)1981;3: pp.13-34
「スタール夫人 ”ルソーについての書簡”の二つの序文」Deux préfaces aux Lettres sur J.-J. Rousseau de Madame de Staël 『紀要 49』 1984;1: pp.121-133 「ジュラ問題--アイデンティティ研究序説」(上・下)Questions jurassiennes - introduction à l'étude sur l'identité 『社会労働研究 36-3 & 37-3』 1990 & 1991: pp.45-95 & pp.61-105
「口碑のヴァレー地方」Le Valais dans Légendes valaisannes 『商学研究39-1』(関西学院大学)1991;4: pp.39-57 「あなたはEEEを受け入れますか--スイス・ロマンドとマイノリティの言説編制」Acceptez vous l'EEE?--la formation discursive de la Suisse romande minoritaire 『社会労働研究40-1.2』1993;7: pp.289-352
"Introduction de Ramuz au Japon" in Revue des Lettres Modernes,(Minard, Paris)1985;4: pp.149-162 「こんなところに住んでみたい…」C'est là que je voudrais vivre... 
---> フランス文学
加太宏邦「スイスであることの幸せと不安」」L'euphorie ou la crainte d' être suisse 『21世紀国際社会への招待』有斐閣 2003;6所収: pp.193-203 「サンドラール小伝」Vie de Blaise Cendrars 『Romandie 4-20』 1981-1997 (連載・未完)
C.F.ラミュ『ヴァレー地方風土鈔』(加太宏邦・訳・解説)
Charles Ferdinand Ramuz : Vues sur le Valais
『法政大学多摩論集』 第23巻 2007:3 pp29-99.
La Litterature romande par ordre alphabetique
法政大学『多摩論集』第24巻 2008:3
+ + + スイス・ロマンド文化研究
TTT >>
La Culture Romande
C.F.ラミュ ギュスターヴ・ルー アリス・リヴァ ブレーズ・サンドラール ジャック・シェセ   ユーグ・リシャール ジャック・シェセ マリー・ドゥヴァラ ジャン・スタロバンスキ ヴァルゼル ルソー セルヴェ ヅムトール ポール・トゥルニエ ピアジェ アルベール・ベガン リルケ フェルナン・シャヴァンヌ カルヴァン ジャン・ポーラン ルネ・オーベルジョノワ ピレット・ミシュリルー ルネ・モラ ダヴェル フィリップ・ジャコテ バンジャマン・コンスタン シャリエール夫人 ジャン・オニミュウ モーリス・シャパ ベルティル・ガラン ロラン・ショレ・・・


***関連リンク Liens***



加太宏邦 スイス・ロマンド文学という制度(抜粋)
 森田安一編『スイスの歴史と文化』刀水書房 1999年 所収

はじめに
1 国家・言語・文学
2 創出される文学
3 文学と「公」
むすび

  はじめに
 文学が自覚的に創られ、その姿が描かれると言うのは、言うまでもなく、近代に成立した制度であるが、本稿では、スイス・ロマンド文学を素材として取り上げ、この実体を検証し、その文学に内在する問題性を提示してみたい。また、ヨーロッパや日本での文学の制度が、スイス・ロマンド文学の抱える問題性という鏡にどう写し出されるかという関心をあわせて示せればと願っている。

  むすび
 スイス・ロマンド文学を巡る問題性をいくつかの角度から見てきた。スイス・ロマンド文学は、スイス文学の一部でもなく、ドイツ語圏やイタリア語圏の文学とも淡くしか交わらず、フランスとは多重的ではあるが、極めて屈折したむしろ屈辱的な関係(スイス・ロマンド地方人は、フランス文学の受容者=需要者ではあっても、発信者ではない)しか持てず、しかもフランス語圏諸カントン間の連帯意識は醸成される機運も希薄で、むしろ各地域はさらなる自律を志向し、結果、このうえない縮小を自らの手で作り出し、それは発表の形態にも制約を与え、自己表出の内実をも矮小化させ、これらすべてが相互に作用しあう特殊な構造を作り上げている。この相互作用から出現しているものは文学なのだろうか、それとも括弧が付いた文学なのだろうか。
 そもそも、スイス・ロマンド文学を文学史にしろ、辞典にしろ編むのに作家一人ひとり無邪気にスイス・ロマンド文学に囲い込んで、記述してそれですます、それはまさに、平等主義理念に支えられたスイス国家のミニアチュアだ。個が寄り合って全体ができる、という神話。閉鎖系になった小さな至福郷で、文学は変質し、多くの作家は、作品が自律的だという夢にまだまどろんでいる。バイロンがいうように、「作家が本物の作家として容認されるためには、まったくの見知らない人に、ポケットからいくばくかの金銭を引き出させること」(52)、、逆にいえば、他者と切り結ばない作品は存在しないに等しいはずなのに。おそらく、スイス・ロマンド文学の文学史やアンソロジーがたいてい1000頁前後のきわめて大部な体裁を持つのは、市場の洗礼を受けない小さな社会ゆえの甘いお手盛り(どんな作家でも掲載される)をやっているからだと思わざるを得ない。その存在証明のために政府や銀行を総動員してまで示そうとする「文学」とは一体何なのか。
 ところが、その地平に立ち止まって、われわれの側の文学(例えば日本文学、フランス文学)を振り返ってみると、疑問符は、実はこちら側の文学にもつくのではないかという疑いが湧いてくるのである。初めに、文学の制度は近代の産物と述べた。ここでは近代についての議論に深入りはできないが、二つ問題点を提起してこの論を括りたい。ひとつは、われわれの側の文学は、過度なまでの近代の市場原理にさらされたやはり括弧付きの文学ではないか、という点。もう一つは、そこにこそブルデュがいうところの文化資本編制の強力な近代的閉鎖系があって、それが大国文学(フランスはもちろん日本なども含む)に遍くスタンダード化されているため、かえって文学とは、というナイーヴな問題が隠蔽されてはいないかという点である。このことは、また別の機会に考えてみたい。

頁上へ

加太宏邦 スイスが溶ける日(抜粋)
 森田安一編『岐路に立つスイス』刀水書房 2001年 所収

    1.   スイス・EU双務協定
    2.   EU加盟へ
    3.   問題の所在
  1. EU渦巻星雲
    1.   ヨーロッパ
    2.   閉鎖性と外
    3.   一神教
    4.   定義することと排除すること
  2. EUの意味と方向
    1.  曖昧な仮想国家
    2.  むなしいアイデンティティ
    3.  見えない中央
  3. 文化の平定
    1.   統一と多様ということ
    2.   補完性原則の欺瞞
    3.   三つの可能性 
  4. 溶けるスイス
    1.   双務協定の国内評価
    2.   EUによくなじむスイス
    3.   スイス文化の行方
    4.   故郷の喪失

      
    ・・・・・
    2 EU加盟へ
     確かにスイスは、EU加盟については政府も国民も慎重である。ただし政府の慎重さは、EU加盟を確実に成功させるための手だてについてであって、一方、国民の方の慎重さは、とくにクリストフ・ブロハーなど「中央スイス民主連合党(UDC)」/「スイス国民党(SVP)」(前者は仏語・伊語名、後者は独語・ロマンシュ語名)の反対などにみられるかなり広範な実質上の反対ないしは慎重さである。それにもかかわらず、EU加盟は、近い将来、かならず上程され、人々は否応なくこの問題について議論を始めることになろう。しかし、人々が議論したいのは本当は何についてなのだろうか。
    ・・・・・・・・

    3 問題の所在
     以上のことを与件として、我々が問題にすべき点を整理しておこう。
     一つは、スイスが関係しようとしているEUとはそもそもどのような文化運動を内包している構造体なのかということ。このことの把握なしには、スイス文化の行方は論じられないだろう。
     二つ目に、EUは、固有文化にどのような影響を及ぼすか、また、EU市民をどのように変容させるか(させないか)という関心である。
     そして三つ目は、スイス人はこの新機構を前にしてどのようなアイデンティティの組み替えを要請されるようになるのだろうか、というスイス文化固有の問題を考察することである。
     ここで言う文化とは、狭義の意味での客体的な文化所産(芸術や宗教など)だけを指すのでない。むしろ象徴体系としての文化である。ある集団で共有できる「意味の構造」(意味世界・生き方・価値の体系)が文化であり、かつその意味の中でのみ、人は人であり得るという安定的な感覚を懐きうると考える。それぞれ固有の文化は固有のテクスト(政治・経済・社会など)の相互連関的な構造体としてそこに出現する。そして、人々は自己のアイデンティティをこの文化の変容とのインタラクションの中で保持したり変容したりする。
     先に述べたように、EUは、単なる経済制度や政治制度などの改変にとどまるだけでなく、その理念が必然的に引き起こす文化問題を含み、結果、複雑な、おそらくシミュレーションの極めて困難なアイデンティティの変更を余儀なくさせる運動でもあるはずなのだ。本論では、政治・経済制度としての国のことでなく、文化の統合体としての国や人々のことを考えたい。
     一般に、文化を論ずるときは、各文化の持つ価値は常に相対的であるということになっている。周知のようにEUの基本憲章では、個別文化の尊重を謳っている。しかし、現実のプラティクではそれが必ずしも可能でない。マクドナルドのハンバーガーは世界に広がるがフォンデュはそうはならないという例で見るとおり、文化の権力を視野に入れて、スイスの文化の運命を考えてみることが必要と思われる。
    ・・・・・

    頁上へ

home//accueil